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    <title>loftwork.com - 本橋ゆうこのブログ</title>
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      <title>量子コンピュータとか、あと情報教育とか</title>
      <description>
ブハッ！改めてよく見るとほんと変な絵ですね～☆（笑）

一応、先週やや久々にやった連載もののお仕事です。
この話題で三回ほど続くそうで、その一回目。。


ITmedia AnchorDesk
科学なニュースとニュースの科学：
「量子コンピュータって何？」　その1
↓
http://www.itmedia.co.jp/anchordesk/articles/0807/04/news072.html


ネタが「量子コンピュータ」…量子？っという、自分のような遺伝子レベルで生粋の文系オンリー人間にはまったく理解そのものが困難な世界の出来事なのですが…えぇまあ、頑張って調べましたよ。。高校でも指一本触れずに済ませてきた（当時からすでに選択制だったので～。汗）「量子力学」のサイト（！）とか、ギリシャ以前まで遡って「数学の歴史」サイト（！！）とかまで一通り見てみたんですが、このイラスト見る限り

…これっぽっちも役にたってませんね（爆）

発想が、マジでアホすぎる。。。だから何だよ忍者って～！？（失笑）
いっぺんにたくさんの計算が同時に出来る＝分身の術
しか思い浮かばなかったという情けない事実がバレバレです。。…まあ、でもわかりやすいっちゃわかりやすいから良し（イイの？！☆）。

私のお仕事イラストにおける信条は、「わかりやすさ」と「キャッチーさ」が売りというか、本領発揮…とか不遜にも思っておりますので。。（あっ、石が…！逃）

ということで、ご興味ある方はちょろっと覗いてみて下さい～♪♪



それと。
同じ情報サイトで「情報教育」関係の興味深い記事を見っけました。

これから子供にネットのことを教える必要あるとか、現場がどうなってるのかわからないとか何かしらこの問題に関心持たれている方は、こちらも読んでみて下さい。

自分のようなパソコンの前にばっかいて物を考えたり、作ったりしている大人（といってもういいのか？苦笑）の想像もつかなかった状況になっているようですね…。


小寺信良の現象試考：
情報教育は実際どうなっているのか
↓
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0807/07/news018.html


この著者さんのコラムも、毎回すっごく考えさせられるリアルな業界レポートみたいのが多いので、遡って過去のエントリも読まれてみる価値あると思います。

こういう方とか、みんな「ちゃんと自分の仕事してるなぁ…エライなぁ」とかつくづく感心というか、姿勢に心を打たれるものがありますね。
テレビ業界内部のこととか、別に誰かに強制されたからってあれほど詳細なもの毎回書いてるんじゃないと思うのですよ。
ただただ、自分が長年関わってきて、とっても愛している業界だから、どうにかしてもっと良くなって欲しい、生き返って欲しい、とお思いなのでしょうね。。

極めて個人的な使命感…ていうのかな？


そういうのも、きっとアリなんだと思う。</description>
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      <category>知識・情報</category>
      <pubDate>Mon, 7 Jul 2008 02:50:03 +0900</pubDate>
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      <title>目を疑うような変なニュース来ましたーッ！（愕然）</title>
      <description>
ちょっと、これはアリエナイィィ！！！☆
…というような目ん玉飛び出るような海外ニュースを見つけてしまいました…。

ていうか、マジで今日ってエイプリルフールじゃないんですかね？？（汗）


「批判コメントの嵐！Google訴訟、Youtubeのユーザー情報まで開示の判決
2008年07月04日 10:28
↓
http://labaq.com/archives/51053944.html



わからん。。。

なんで公の裁判でこんなことになるの？
ていうか、こういうことって可能なの？？


この裁判をやった人らは、一体ぜんたい、この世界をどうしたいのか…？


※専門っぽいニュースサイトから追加の補足情報～
↓
［WSJ］ Google、YouTubeユーザーのIDとIPアドレス引き渡しに抵抗
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/04/news078.html</description>
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      <category>知識・情報</category>
      <pubDate>Fri, 4 Jul 2008 08:10:28 +0900</pubDate>
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    <item>
      <title>…我ながらヒドすぎるッ！この顔！！☆（笑）</title>
      <description>
ちょっぴりご無沙汰しております間に、また私、やりましたよ。。

久々に「オイオイ～これはいくらなんでもあんまりだろう！？（失笑）」
と自分で思うくらいに、画面上で暴れまくって？しまいました♪
（…あぁ。。これで前回エントリあたりまでに営々と築き上げてきた「なんか頭良さそうな人」イメージは、すっっかり、ものの見事に、チャラですね？☆爆）
※画面手前の、これでも一応女性の方です。。。（毎度X２本当にゴメンなさい。涙）


というわけで！（？）以前にもこちらでご紹介したビジネスパーソン健康系コラム、最新号は本日も元気イッパイ更新中です！！！
↓
ドクトル・ピノコのプチ元気の薬：
第9回 胃痛の原因はそう単純じゃありません──内臓は複雑に絡まっているのだ！
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0807/02/news069.html


…いやでも、私だって悪意あってこんなん描いてませんよ！？（当たり前だ。苦笑）

正直申し上げて、この著者さんもね…相当毎回突っ走って下さるものだから、それを私が「え～？ハズカシイぃ」とかいって、この方お一人に突っ走らすわけに行かないじゃないですか！？（奮）
本文と挿絵は一連托生！二人三脚！毒を食らわば皿まで！（？）
熱き魂の共同作業なのですよーーー！！！☆
（とかいってホントに大丈夫なんでしょうか…？汗）


日々、ビジネスの最前線で活躍されている皆様の健康に少しでも寄与できればという高ーい志のこの連載。つい最近気づいたんですが（笑）、どうやら10回シリーズだったらしく、あと一回で最終回です。。
著者さんも書いておられますが、終わっちゃうの何かさみしいな～っと。。。
私が関わらして頂いた連載としては、けして長いほうではなかったですが、その密度（爆）というか、何しろ色んな意味で”強烈”でしたので…（苦笑）。
自分としてもまた新しい挑戦をさせて頂けた気もしてますし。

それに、この胃痛の回でもそうなんですが。
私も、きょうだいそろって小さい頃から人並み外れて虚弱な子でありましたので（当方の場合は呼吸器関係でしたが）、この方が繰り出してくるネタに妙な親近感があったのですよ。
こうやってランドセルしょってるちびっ子が「たい○ょうかんぽう（だったか実は定かではないですが）のまなきゃ！」とかの具体的な薬品名を日常的に口にしてるような光景とか。。
我が家にも「携帯吸入器」とか「抗ヒスタミン剤」とかが”絶対生命線”みたいに色々ありましたもん。（今は案外と元気な人ですが…笑）

だから？というか、何か他人の話ではないような入り方が出来ましたね。
ここまで自由にハチャメチャできたのもそのせいでしょうか？…とかいって著者さん周辺に何もご迷惑かからないといいのですが…毎度ホントに…（大汗）。
でも、色々勉強させていただきました☆有り難うございました！！（ペコリ）


思えば、この著者さんはご自分の体への「何でだろ？」から始まって、その帰結としてお医者さんという職業を選ばれたのかも知れませんし。
同じように「何でだろ？」と不思議がった子供の私は、たまたまイラストというものと出会い、そこに人間の精神、高きも低きもその存在全てを鏡のように映し出す、めくるめく「魔術」の虜となり…今に至る、とも言えるのかも。。

そういう意味では、とても興味深い他人様の世界をかいま見させて頂き、またこういう面白い出会いを用意して下さった編集者様にも感謝しております。
あと、毎回読んでくださった沢山の読者様にも。。
皆さん連載の知識を活かして、どうぞお体おすこやかに♪お仕事頑張って下さい！


それでは最新のお仕事のご報告でした！
…おっと、まだ一個終わってないじゃんよ。。。（汗）
（さらにはイベントの漫画がまだ全然っ…！？焦）

じゃ、良い子のみんな！ちゃんと健康記事を読むのだぞ！
サラバなのだーーーー！！！！☆（走）</description>
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      <category>仕事・制作</category>
      <pubDate>Wed, 2 Jul 2008 09:08:11 +0900</pubDate>
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      <title>死体のはなし（活き活きと死につつあるもの）</title>
      <description>
突然ですが、皆さんは今までに何体の「死体」をご覧になりましたか？

この言い方が即物的過ぎて嫌だ…という方もいるかも知れませんね。。
では、改めまして。



皆さんは、これまでに何人くらいの死者の「顔」を思い浮かべることが出来ますか？



あぁ、またもぐがヘンなこと言ってるよ…とか思われるんでしょうねー。。（笑）
いいですよ、別に☆
こういうやつなんです。諦めて受け入れるか、素通りでお願いしますっ♪

※マジで今回の話は「私ダメそう…」と思った人は絶対ここで止めておいて下さい！



私のばあい、そうですね～ええと、今だいたい年齢的には最後に学校を出てから10年ちょいだと思うんですが…現時点で

はっきりしているところで５～７人、くらい？

ですか。。。とりたてて多くも、少なくもないかと。
何でくらい？なんだよ、って話ですが。
これ、自分でも不思議なんですけど、今、指折って数えようとしたんですけど、どうしても途中からわからなくなるんですよ。。
手が動かなくなる。いや、意識が「数える」ことを拒否する？
ので、大体なんですが、そのくらいだと思います。すいません。
はっきりしないところまで含めると、もう少し増えるかも知れませんが。
（旅先で「…え？あれって、どっち…？？汗」的なこともありましたんで）


ここでいう「はっきりした死者」というのは、「顔」という具体的過ぎる言葉で表した通り、その方の存在をかなりリアルに思い出せる、という条件つきです。
故人の生前の姿を良く知っている、とか。
親しく言葉を交わしたこともある、とか。
亡くなった現場にまさに身近に立ち会った、とか。
私に関して言うと、上記の５～７名？の方々について、ちょっとヘンな言い方ですが

デスマスク（＝死に顔）が描けるくらいに

間近に、かつ詳細に、拝見しています。
ていうか実際に一名の方は描かせていただきました。「デスマスク」。
詳しい経緯は、語る意味も無いのでここでは割愛しますが。

それらの方の死に顔のことを思い出しながら、私が何か不気味に思ったり、怖かったりということは、今は特に無いです。
…むしろ、限りない懐かしさ、を感じる程です…。

その人たちの生きていらした頃の優しいふるまいや、穏やかな声や、ご家族との楽しそうな様子…などを、私が思い出せるから、です。


それでいて、私が「死体」そのものについて思い出す時、そこには全く違った感情があります。
それを最も端的な言葉で表すとすれば、

「畏れ」と「異質」

でしょうかね…。
そう。
生きている肉体と、死んでいる＝生きていない肉体というのは、完全に別のもの、なのです。

でも、案外とそのことを普段の我々は意識してはいない。



どうしてブログにこんなことを書く気になったのか、正直自分にもわかりません。
別に最近身近に不幸があったとかでもないし。

ただ、時々こんな風にして、どうしても、無性に「書かなければ」という気になる。

そういう時は、他にどんな急ぎのことをしていようが矢も盾もたまらなくなって、気が付くと真夜中になっても平気で３時間も４時間もキー打っていたりする。
今日も、そんな日かも知れません。。

そういう時の私は、何故かとても焦っています。
今、これを書かないと二度と機会が無くなるような、そんな気持ちに追われている。
実際、私はずっとここ（LWでも、他のブログでも）にいられるとは思ってない。
いつか皆に私の声は届かなくなってしまう、その時はいつやってきてもおかしくない…そう、常に考えています。

だから、「書かなければ」と思ったときには、すぐに書くことにしてるのです。
まあ、人に読んでもらえるチャンスもそうある訳じゃない、って話でもありますが☆
（ふと気が付いたら何故か例の記事がランキングに入っちゃってましたね…笑）




いつからかはわかりませんが、私たちのこの社会では「死」がとても遠くなった。

「死体」を、この眼で見ることがほとんど無くなった。

学校でも、家庭でも、病院や葬儀場ですら「それ」はひたすら隠されている。
「それ」を語ることは、この蛍光灯に照らされたうすら明るい世界では、絶対的なタブーとされ、もっとアンダーグラウンドな、例えばネット上の「自殺サイト」とかでしか語ることが出来なくなった。
そういう場所で、コンピュータの漆黒の背景画面上で交わされる「死」の話題というのは、どこか抽象的で他人事、のように扱われている気が私にはしています。
※といっても私がそう数多くのアンダーグラウンドなサイトを知ってるわけではありませんが


簡単に「死ぬ」といい、「死のう」といい、「殺してやりたい」と言う。

ネット上でもどこであっても、そういう言葉を使う時、では、その人は本当にそこでリアルな「死体」を思い浮かべているのだろうか？


「死体」の「顔」を知っているのだろうか？


「それ」が生きている人間とどのように違っているものか。
…そうだ。
「死体」とは「物質」であり、極論すれば「もの」のことだ。
拍動がなく、血流がなく、体温がない。その肌に触れた時の感触を知っているのか？
そこには意識は無い。痛みも、苦悶も、感情も無い。
「死ねば楽になれる」というが、そうじゃない。「楽」どころか何も無くなる。

存在が全く別の次元に移行するのだ。


死んだ人間の皮膚の色を知っているだろうか？
それはその人が「最後に生きていた時」の生体の状態をそのまま反映する。

つまり、肝臓が悪かった人の皮膚は”黄疸”で「黄色っぽく」なっており。
末期がんを患っていた人は、肉体の極限まで痩せて「薄い」皮膚をしていて。
（この場合、焼いても骨がほとんど「粉」のようで形を残していない）
比較的若い人が事故や循環器系の疾患などである日突然亡くなった場合は、その通り本当に「眠って」いるような表情と、「健康的な」顔色を見せている。
苦しんだ人は苦しそうな表情を。
安らかだった人は、うっすらと微笑んでいるような。
食事をしてから死んだ人の胃袋の中には丸ごと未消化の食物が残っていて。
風呂に入れなかった人の体表面にはちゃんと垢があって。
毛髪や爪は条件によってはさらに数日は伸びるという。
ガスや薬物で死んだ人間の皮膚は大抵、緑や何かの「奇妙な色」に変化し。
死後、すぐに発見されなかった人間の体は「腐敗」が進んで強烈な臭気を発する。
思わず涙が出るような、胃や食道を素手でギュウッと絞られるような臭い…。



それが、死体のリアルだ。



そのリアルを、どれだけ頭に思い浮かべながら、「死」のことを語っているのか？
時々、私は聞いてみたくなるのです。

ネットの仮想の空間の中で抽象的な「死」とたわむれる人達に、だけじゃない。
「それ」をひた隠しにし、子供や若者の目から覆い尽くせると思っている人達にも。


…どうして子供たちに「死体」を触らせないのですか？


ほんの数時間前までは確かに温かかった皮膚の、異常なまでの「冷たさ」。
柔らかかった体表面の、死後硬直が始まってからの、あの石のような「硬さ」。

閉じられたまぶたを指で開いて見たらいい。
涙腺が機能しなくなったそこには見慣れた瞳の”星のような”輝きはもう少しも無くて、まるで…そう、「ゴム」のようなどんよりとした黒い面だけがあるはずだ。
うっすら開いている目が、もう「目」のように感じられないのは、そのせいだろう。

そして、部屋の中に死体が横たわっている時の、あの絶対権力的な「静けさ」。
何にも影響されず、頑として動かない、あの何とも言えない奇妙な「存在感」…。
それと全く対照的な、残された家族達の激しく嘆き悲しむ姿、音と動き。

どうして「あれ」らをすっかり見せて、自分で考えさせないのですか？

「それ」を知らずに、果たしてどこまで「命」のことがわかるというのか？

もう動かなくなった体を前に、確かに自分は「この人」の温かさ、柔らかさ、穏やかな声を全て知っていて、心の中に持っているのに、今ではそれがもう何処にも無い―…本当にこの世界のどれほど遠くまで探しに行った所で、見つけることも、ましてや取り戻して来るなんて絶対に出来ない…それを知って初めて、人は気づける。



人間が、自分達で自由に出来る「命」など、ただの一つも無いということに。



ミジンコ一匹、この手では作り出せない人間の”限界”。
と同時に、今はもう動かないこの体が、生きて、声を発して、自分を愛してくれた時間がどれほど素晴らしい、かけがえの無いものであったか―…という事実。

だからこそ今ある全ての「命」が、何者にも侵しがたい尊厳を持つのだということ。


大切なものを知らない人間には、失う痛みなどは無いのです。

自分がその相手を失ったら「つらい」と思う、そういう大切な存在。
そして、その大切な相手の体が、「死」を境に「もの」に変わるという現実の非情さ。

その二つが両方そろって、初めて人には「命」のことがわかるのだ、と思います。
初めて、自分以外の全ての生命を哀しく愛おしく思うことが出来るのだろう、と…。


けれど、今はそのどれもが社会の中から失われている気がする。

家族同士であっても繋がりはますます希薄になり。
どれほどネット上で言葉を交わそうと、それは都合が悪くなればいつでも切れる便利な関係に過ぎないと皆が思っていて。
家族の一員のように扱ってるペットすら、死んだらゴミ回収業者に持って行かせる。
「死」は病院のベッドの上に、ほんの短時間しか存在しない。
子供たちは、大人になるまで一度も「死体」に一切、触れることが無い。
ネットで誘い合って集団自殺を実行した若者らの、発見が遅れた「腐乱死体」は、決して世の中に公開されることは無い。



現代の、この社会は、あらゆる「影」を否定している。

人間の底知れないほどの暗い感情も。

死ねば直ぐに腐ってウジがわくという「死体」のリアルも。


だから「生」に現実味が無く、「心」に奥行きが無い。



人間の存在それ自体が、ひどく薄っぺらなのだ。




…それが、私にはこの頃、ひどく危いものに感じられてならないのです。




Memento mori
メメント・モリ：ラテン語で「自分が（いつか）必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。日本語では「死を想え」「死を忘れるな」などと訳される事が普通。芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』
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      <category>未来・過去</category>
      <pubDate>Sun, 29 Jun 2008 17:13:27 +0900</pubDate>
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      <title>表示できましたーーー！！！☆（号泣）</title>
      <description>
皆様！前々回のワタクシめの記事、例の「アプリに障害で表示されないよ」問題を引き起こしていた記事が、やっと表示・閲覧可能になりました！！うおーん。。。（涙）

その節は、ロフトワーク担当者の吉澤さま、またシステム部門の担当者様に多大なる多大なる多大なるお手数ご面倒をお掛けし、心からお詫び申し上げますと共に、厚く厚くお礼申し上げますっっ！！
ほんとーーに有り難うございましたーーー！！！！！♪（伏）


…で、なんだったんだって話ですが。
実は上記のオレンジの女の子画像がね、記事のしっぽのところにくっついていたんですが…それのタグが最後まできちんと読めてなかったらしいよ？？（汗）
なんでまたそんな事になったのかは、私にはよくわからないんだが…。

でも、今さっきロフトワークさんからのメールで「ここのタグが途中で切れてる」的なことを言われたので、もしかして？とそのタグすっかり消してみたら…てめー！アッサリ表示されてんじゃねーかぁ！！？（失神）

と、いうわけで、めでたく一件落着でございます。。。

今日まで、読めもしない記事を見に沢山の方にお運びをいただきました…。
さんざん期待（？）させたあげく、「あんだよ～この程度の記事かよ（爆）」とか言われるのはまたそれはそれで別の心苦しい問題ではありますが。。

でも、これでようやく晴れてロフトワーク様の管理不足？問題みたいな疑惑は消滅いたしましたので！！
ええ！声を大にして言いますけど、私の記事のタグが間違ってたせいなんですよ！
ロフトワークさんのせいじゃないんですよーーーーー！！！（喜）

良かった…大好きなロフトワークさんを嫌いにならないですんで良かった…（いや別にそんな深刻じゃなかったですが。笑）


なもんで、ロフトワークの皆様。
とっても親切に対応して下さって有り難うございました！

あと、いつも構って下さる他の登録クリエイターの皆様。
ふつつかものですが、これからもどうぞ宜しくお付き合いしてやって下さい。。


本当に皆様のお陰です！
ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。。
そして、色んな人にどうも有り難うございましたっ！！



…あぁ～そんでもって無駄に期待されまくってしまった問題の記事が「くだらねぇ」とか言われるのだけが今は心配だ。。（落）

ほんとどうってことないんですよ…むにゃむにゃ。。。
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      <category>Q＆A・質問</category>
      <pubDate>Fri, 27 Jun 2008 11:41:09 +0900</pubDate>
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      <title>私の記事が見られませーン</title>
      <description>どういうわけか自分のブログ、このいっこ前の記事だけが開けなくなってます。。
書いた自分も入れないって嫌がらせ以外の何ものとも思えませんが？（爆）

かなりご訪問はいただいているようで閲覧数だけは順調に（ブキミに？）伸びてるんですが、てことは皆さんに無駄足させてしまってるということなのか？？（汗）

だとしたら皆様ほんとにごめんなさーーーい。。。


…というわけで、ロフトワークの方、お助け下さいまし。

トップ画面とか他の記事は、とりあえず見れるっぽいのですが。。
（またしてもサーバ負荷とかアレだろうか…？やだな～）</description>
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      <category>Q＆A・質問</category>
      <pubDate>Wed, 25 Jun 2008 14:13:33 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>「文化こそ”最強”である」ということの意味</title>
      <description>
もうタイトルと関係ない画像についてはどうでもいいってことにします（笑）。
ということで、良い子のみんなも気にしないようにっ！☆


はい、今日はこんなお話です。

とはいえ環境問題とかで、勢いこのところ「我々」だの「日本人」だの「人類」だの、やたらデカイことばっか書いてしまった気がするので、反省してもう少し身近なレベルでお話できたらいいなぁとか思う次第。


「文化＝最強」
これ、もう御存知の方はイッパイいらっしゃるでしょうが。
そうなんですよ。

文化とは、最強の存在なんですよ☆

え？そもそも文化って何？どこらへんを具体的に指すの？といぶかしがる方には、そうですねぇ～大体、今ざっと思い浮かんだもので結構だと思いますよ（無責任！爆）

例えば、文化財とかいう時に浮かぶのは「絵画」とか「音楽」、「詩歌」「書」「彫刻」「建築」…最近はここに「デザイン」も入れてもらえるようになったらしいですね。。

「映画」とか「演劇」、「小説」なんかも昔はたんなる低俗な娯楽という位置づけだったようですが、今や立派な文化活動ですし。そのうち「マンガ」も入れてもらえるのかな？（え？もう入ってるの？！汗）

さらにここに、私は「広告」「放送」「出版」「評論」「報道」なども当然入ってしかるべきだと考えます。といっても「ネット広告」なんかはさすがにまだ歴史が無さ過ぎて、かつレベル的にも（…）な感じではあるでしょうが。。
いやでも、この調子で業界の広告原資の総量が順調に伸びてゆけば、遠からずテレビ広告を追い抜くのは確実だそうですので、そうなると第一級のクリエイターたちがネット広告の分野を主な活躍の場にする時代も来て、レベルもどんどん上がって行くのではないかと…。※お仕事の競争率もね（汗）


このように、それまでの世の中に存在しなかった新しいもの、新しい思想を、個人（または賛同する複数）の独創性に基づいて創り出す行為、そのための努力とか表現の活動そのものを、大きく「文化」と呼んでいいのではないかと。


さらに言えば、そのものが生み出されることによって世界に何がしかのインパクト（＝影響）をもたらす行動、であるだろうと。



例えば、アメリカと言う国を語る時に外せないものといえば。
ハリウッド映画
がありますね。
私個人はあまり詳しくないので語りづらいですが。20世紀にヒットした音楽もアメリカ産のものが結構あるような。。（何だそのたよりない言い方。笑）
※詳しい方もしいらっしゃったら自ブログで御高説じゃんじゃん展開して下さい♪←これぞネットの集合知！（うまく逃げた。。爆）

さらにこの他に
マクドナルド・チェーン
コカ・コーラ（ペプシも？）
ケンタッキー
なども、アメリカとほぼイコール（＝）で結ばれる関係にあるようです。
個々の商品自体が、というよりも、その企業の宣伝戦略、店舗展開、さらに言うと、その商品を食べる（飲む）という行為自体をひとつのファッションとして消費することが、ある種の”文化”と言えるのです。
※正月のおせちとか、土用の丑の日にうなぎを食うことなんかも立派な文化ですよ～

あと商品イメージということで言えば、マルボロのたばこなんかもそうですかね。
喫煙者でないので味とかは？なのですが、たしかに、あの男のニオイがぷんぷんしてきそうな宣伝は、カッコよかったです。。吸いもしないのに、男性のイラストとかでくわえタバコって絵になるんですよね…でも実は指とかよくわからないが（汗）


色んな新興国とかの大都会が、軒並み「アメリカチック」で「どっか似ている」、ように感じられるのは、どうしてでしょうね？
それはズバリ、「みんながアメリカに憧れたから」に他なりません。

映画とか音楽とかテレビドラマとか、「アメリカという文化」がカッコよかったから、大人から子供までみんながそれに影響されまくったということです。


憧れの対象としてのアメリカのイメージ。

それはマンハッタンの天を衝く摩天楼群であり、そこを闊歩するバリッとしたスーツ姿のオフィスワーカーたちであり。
また、さんさんと日光が降り注ぐカリフォルニアの、ヤシの木かなんか生えている歩道を談笑しながら散歩するいかにもリッチそうな男女のペアの姿であり。
当然のように広い芝生の庭と自家用プールつきの一軒家と、そこに優雅に暮らすホームドラマのような家族の姿であり。
燃費とかまるで無視したバカでっかい車と、それを豪快に乗り回す男たちであり。
ハリウッド女優に代表される”人造的な”ダイナマイトボディの美女たちであり。


とはいえ、いま騒がれているサブプライムローン問題なんかでも見てとれるように、そういうイメージのかなりの部分は”虚飾”、つまり、ほんとに単なるイメージ（実体の無いものとしての）であったということも、最近ではすっかりバレてきてしまっているのですが。（…いかにも”アメリカ的”なピンク色とかの豪邸に「売り出し中」の札がかかって鎖が張られてる光景はほんと象徴的ですよね。。そういえば先日のNHK「マネーの暴走が止まらない」という番組は衝撃的、かつ秀逸でした！感）

現実には、「アメリカ人」の大半は金持ちでもなければオシャレでもない。
ヒスパニック系の移民とかは、日に何ドルという生活レベルで暮らしているし。
アメリカの学生も「彼女が出来ない」事にキレて（？）乱射事件を起こしたりする。
ウォール街を肩で風切って歩くディーラー達だって実はリストラに怯えている。

「アメリカンドリーム」の国にだって、今はもう希望なんかそうそう転がってない。

でも、そういう現実のことと離れて、イメージというものは相変わらずあるのです。
アメリカ＝強い国、豊かな国、チャンスに溢れた国…という。
そのイメージが、いまだに世界中の新興都市に「アメリカ的な」都市の姿を量産し続けている。
（ヨーロッパの大都市があまりアメリカ的でないのは、それよりずっと歴史が古かったというのもありますが、自分達にとっては”後輩”のアメリカの真似なんか絶対にしたくなかったという頑なな本音も案外あるのではないか？とか。。笑）


しかし、もうお気づきのように、アメリカの文化が最強だったのは、アメリカという国そのものが「世界の最強国」だった間、です。
もうそろそろ、それは終わろうとしている、と言えるかもしれない。

ハリウッド映画も、アメリカ社会の自己批判的な側面を持った作品なんかが増えてきて昔ほど純粋に楽しめなくなってきましたしね～。
…実はこれを一番強く感じたのは、ついこの間メチャなつかしく再放送していた「インディ・ジョーンズ」シリーズを見た時だったのですが…（あの話、原作的には「イギリス系の」考古学者という設定の主人公なんですが、でもお話の中ではどこまでもハリウッドの、「アメリカ的な」いいキャラとして描かれてますよね。。多分、あの親子関係とかの描き方はあんまイギリス的じゃないと思いますよ？って日本人が言うのもヘンですが。。爆）まぁわき道だから別にいいや☆


でも、これは別にアメリカに限ったことじゃない。
その前（つまりアメリカが最強国である以前）は、世界で最も多くの支配地域を持っているいわば最強国は、大英帝国（現在の正式名称は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」…つまりイギリスのこと）でした。
インドとかスリランカで美味しい紅茶を作るのも、世界中の男性があの形のスーツを着てるのも（ちなみに日本でスーツのことを”背広”と呼んだのも）、イギリスの文化的な影響です。※服飾に関してはヨーロッパではおおむね共通してたようですが
その前は…これはどこって言えばいいんだ？オランダ？（でも最強じゃないよなぁ）
その前は、スペインとかが最強でした。


さらにさらにずーっと遡っていった先に、かの有名なローマ帝国があります。
現在のヨーロッパの国の全ての文化の源流には、イタリア半島に起こった一つの国家の持っていた文化の影響が”何らかの形で”ある、といっても過言ではない。
（ああ、それと忘れちゃいけない「キリスト教」ですね。。）

アジアではほんとに長らく、規模の差はあれ中国の歴代王朝が最強の存在で、すべての周辺国は中国に憧れ、文化的にはその真似から始まり、後にそれぞれの国の風土にあった形にして吸収・継承していました。
日本は途中でちょこちょこ鎖国とかしてましたからその文化的影響が限定的だったりする時代もありましたが、やはり大元のところでは影響は否定できません。
そもそも考えごとする時の「文字」自体がアチラから入って来たものですゆえ。。


わかりやすいのでローマ帝国のほうで話します。

ローマというのは、あの昔（紀元前100年～紀元後370年くらいかな？）でいうと正に「世界のほとんど全てを征服した」と言えるくらいの大帝国を築いた超国家です。
あの頃、というのは地中海周辺と、せいぜい今のフランス、イギリスの下の方、くらいまでが「世界」（わかる範囲の）と言われてましたから。※アジアのほうはあまり知られてなかった。でも中国とは貿易の痕跡もある～

ローマのやり方が上手かったのは、全てを「力」で屈服させたわけではない所です。

有名な円形闘技場がありますが、あれはあの時代の一大娯楽施設です。
あすこでは連日、剣闘士によるスリリングな決闘や、猛獣ショー、スタジアムに水を張って船で海戦（！）の再現ショーなんかまでやっていたそうです。
またほとんどの都市には「大浴場」があり、「劇場」があり、「図書館」があった。
ローマ市民となったものは、これらの公共施設を無料で好きなだけ使うことが出来たそうです。この時代、労働は全て奴隷がすることになっていたので、暇を持て余した市民がよからぬことを企んだりすることがないよう、国家の政策として皇帝自らが主催するかたちで娯楽を提供していたのですね。

そして、この「栄誉あるローマ市民」には、後からなることも出来たのです。
広大な帝国領の中には
・自由な市民が暮らす直轄地
・属州と呼ばれる直轄地に準じた都市
・植民市（文字通りの植民地）
の分類があり、ランクに応じてその扱いには明確な差別が設けられていた。

でも、この属州とかからは「ローマ市民」に格上げが可能だったらしい。
市民になれれば一切の労働が免除され、奴隷たちにかしづかれながら、毎日たらふくうまいもの食って、飽きたら娯楽を鑑賞して…という「文化的な」リッチな生活を享受することが出来たのです。
だから、属州の人々は頑張ってローマに尽くして、労働力や兵隊を供出したりして格上げしてもらおうとした。ローマ的である、と認めてもらうために、どんなに気候が違う土地でもあのずるずるした「トーガ」を着て、ローマの言葉を話した。どんな辺鄙な都市にも立派なローマ建築の遺跡が残っているのは恐らくそのせいでしょうか。
少なくとも、ローマが世界の最強国であった時代は、そうでした。

そうやって、みんなで「憧れのローマ人」になろうとしたのです。

…ああ、これって、現代の「アメリカ人」になりたいと思った人々の心理と同じか。

なんてことを、書きながら今更のように思い出しました。。
かつてアメリカに戦争でボロ負けをした日本人の心象そのものではないか、と…。
間違いなく、日本人は「アメリカ人」になりたいと思ったのですよ。あの時。
（実際に「英語公用語」論なんてのまで歴史的事実としてありましたからね～）
これ思い出してちょっぴり寂しい感じ、がするのは私だけ、ですかね…？



文化が最強である、その最も根源的な理由は。

それが「人間の精神にダイレクトに働きかけ得る唯一の装置」であるからです。

「憧れ」というのは実に恐ろしく強い力を持っている。
豊かさへの憧れ。
美しさへの憧れ。
異性にモテることさえも、憧れとして個人の行動を支配し、喚起する。

日本の古いことわざに「牛を水場に引っ張っていくことは出来ても、水を飲ますことは出来ない」というのがありますが、「力」ではなかなかなし得ないこれを「憧れ」はいとも簡単に可能にするのです。

「水を飲む」という行為＝カッコイイ
という明快な図式さえ用意して、それを浸透しさえすれば良いのです。


そんなバカな～…☆とお思いですか？

だったらアナタは多分、とても大事なことを忘れているのだと思いますよ。。
ほんの数十年前まで、我々のこの国にも


「（大きな目的の為に）死ぬことはカッコイイことだ」


という共通認識が、国民全体に極めて広範に共有されていた、という事実を。

だって、そうでなくてどうして、普通だったら痛いことはおろか、死ぬことだって嫌に決まっているのに、若者が自ら志願して「戦争」に身を投じようとしますか？
敵の航空機や艦船に自ら体当たりして死のうなどと、勝手に思いつくでしょうか？

それが「正義」であり、「国を守る」という「大義」に叶う事であり、死後に報われるはずの「善」であり、武士の伝統を有する国に生まれた「男の本分」であり…。

ようするに「カッコイイこと」だったのですよ。


そして、そこに至らしめたのは確かに「文化」の力だった、ということも忘れずに付け加えなくてはなりません。

日本には日本の側の、敵対陣営であったアメリカではアメリカの側の、「国策宣伝部隊」があって、そこが情報を統制し、時にはイメージを捏造して、自らの「正義の戦争」を喧伝していった。
あの頃のアメリカの「軍隊に入ろうぜ！」的な募集ポスターとか面白いですよ。何か戦争なのに「コカ・コーラ的さわやかさ」みたいな（笑）。
海軍のセーラー着た可愛いお姉ちゃんがうふっ♪とか言ってたりして。。
…まぁどんだけこの手のポスターが効果あったかは正直、微妙ですが。。。。

そんなイメージ広告より、はるかに効果あったろうと思うのは
「悪の枢軸vs正義の連合国」
という単純明快な勧善懲悪的図式、だったはずですけどね～。
※あ、これも今のイラクとかで最初のほうわりと使ってたな～…（落）
進んで悪の側になりたいというマニアックな人は少数派でしょうから。もちろん、そうやって「悪」と名指しされた側の内部では全く逆のことを言いまくってたのはもはや言うまでもありません。（例：鬼畜米英。。）

しかし、こういう短期的なことではないのでしょうね。本当のところは。
その国に生まれて、物心ついた時からシャワーのように浴びせられてきた色んな価値観や、目にしてきた風景や、読んだ少年少女雑誌、教科書、学校の先生の表情に至るまで…そういうありとあらゆるものが、個人をある行動に向かわせる「文化」だと言えなくもない。映画やラジオだけとは限りません。（今だったらテレビです）

それは、ある意味では誰一人として完全に制御することの出来ない「生き物」で。
得体の知れない色んなものがくっついて、一つの体を持った「キメラ的」な。
その生き物と、我々とは永久に離れられない運命にあるところの…。



と、最後まで文化の恐ろしげな話で終わっちゃうのはあんまりだ（？笑）と思うのであと少しだけ付け加えてみます。（みんなガンバレ！爆）

いま、世界で「日本」がひそかなブームらしいですね？
昨日もテレビでは噂の黒人演歌歌手さん（超・日本語うまいよね。汗）が見事な演歌をヒップホップな格好で熱唱されてましたし。

あとアキバに代表される日本のオタク文化に傾倒するヨーロッパとかの若者のこともニュースで紹介していたり。（中野でなるとのコスチューム買ってたな～☆）


どうしてこういうことになってるか、たぶん一番よくわかってないのは、日本人自身じゃないかと思います。
「なんか知らないけど売れてるらしい！」という（笑）。

でもこれは、わりと簡単な構図で理解出来ると思います。

ようするに彼ら（欧米先進国の若者たち）にとって、自国の文化や、自分たちが属するアメリカ式の文化に誇りや魅力をイマイチ感じられなくなっているのだろうと。

イラクやアフガンで泥沼にはまっていることとか。
サブプラ問題で景気が不安定化していることも。
ファーストフードばっか食ってるからやたら肥満が多いことも。
若者が最も多く目にするテレビやマンガのキャラクターがあんま「可愛くない」し、「カッコよくない」とかも。

そして、彼らにとっては「カワイイ」「カッコイイ」という新鮮さや驚きを与えてくれるものが、日本から来たものに多かったということなのでしょう。
だから今はそっちを選んでいる。

多分、自分が育った文化にたいする「カウンター」的な意味合いなのだろうと。

このあいだ面白ニュース系のサイトなんですけど、興味深い記事を見かけました。
なんと、「あと100年でキリスト教が消える」と思ってる人が多いらしい！？
↓
http://labaq.com/archives/51045491.html

キリスト教といえば、ヨーロッパ･アメリカ社会と切っても切れない深すぎる関係にあるものですよ。それがこんな認識をされているとは？？
そして、同じ記事の中で「仏教に関心がある」と言ってる層の存在も。

こういうことも含めて、「カウンター＝対抗勢力」として日本、仏教、さらにはアジア的なるものが捉えられてるのではないかと思うのです。


でも、これってある意味、すごいチャンスではないでしょうか？？


日本の外に「日本的なもの」に憧れてる多くの人々がいる。
その良さを、かなり深くはっきりと認めてくれている。
現状、日本は「世界の最強国」などでは全く無いにもかかわらず！
（そりゃ、一時期ジャパンアズナンバーワンなんて吹いてましたが今は昔。。）


ローマに憧れた多くの人々が各地にローマ風の遺跡を残したように。
アメリカに憧れた多くの国がアメリカそっくりな街並みや文化を受け入れたように。

日本に憧れてくれる人々が、「日本のような」何か豊かなものを、価値として全世界に広めてくれる可能性もあるのですよ！


そのキーワードこそ、いま流行の「カッコよさ」や「カワイさ」であるだろうと。

デザインとか、グラフィック的な意味であるかも知れない。
単純に人間の容姿、のことを指しているかも知れない。
あるいは生活様式だったり（町屋とか狭小住宅はやってるよね）、小説やドラマ作りを通してかも知れない。
さらに環境問題で日本の高度な省エネ技術とかが求められているのかも知れないし。

「小さいもの」を愛でる、というありかたも日本的な精神ですよね。
「足るを知る」とかも、もとは禅の思想から来ているし。
多様な価値観を受け入れる柔軟さとか、あいさつとか、謙譲の美徳とか、まぁ考えると色々あります。
そういうの、もっともっと遠慮しないで発信していけばいいんだと思うのですよ。

「世界のみんなが地味で、優しくて、エコで、仲良しになれればいいのにー」とかそういうメッセージ。。日本人がいうなら、ある意味で説得力あります。（笑）



じゃ具体的にどうこうっていうのは、これはもっと簡単なことで。

我々はモノ作りなので、要するに
「自分が良い（＝カッコイイ）と思ったものをひたすら作る」
ってことでしょう。それが世界中に売れていくことを夢想しつつ…（笑）

難しく言えば
「自分の創作上の信念を貫けばよい」
ってことですか。
…簡単に言い過ぎてありがたみが若干薄れました（爆）。

でも、基本はそういうことだと思います。


「表現」が持つ本当の力を知る、そして、それを正当に信じる。

その先に自分が思い描く「素敵な世界」があることを、信じて、一歩ずつ前に進む。


もちろん危険な「妄信」に陥ってはいけないわけですが。
そういう自らの緊張感も含めて、ですね。


では、みなさん。

今日も頑張って、己ひとりの「信じる道」を進みましょう。。


ペンで、筆で、マウス＆ペンタブレットで、キーボードで。
この手で、いっしょに世界の未来を切り開きましょう♪


我々もまた、「文化」という”最強のフィールド”で戦う「勇気ある戦士」なのですから。。




…あ～、またなんか結局ハナシが大きくなって終わっちゃったよ（苦笑）



※記事を表示できなかった間に見つけたニュース記事で、これもある意味「文化の暴力的なまでの力」を示す側面だなぁ…というようなのがあったので、参考までに追記してみます。ほんと短い記事ですが、考えさせられてしまいます。。

そんな～あの可愛い「にも」が…（汗）
↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080627-00000023-jij-int</description>
      <link>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29702/</link>
      <guid>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29702/</guid>
      <category>プロジェクト</category>
      <pubDate>Wed, 25 Jun 2008 07:26:17 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>ecology＝生物と環境の間の相互作用を扱う学問</title>
      <description>
…そろそろグリーンキャンペーン？も終わりましたよね？ということで…（笑）

エコロジーの語源、なんだそうですよ。生物学の一分野としての「生態学」。


↓↓以下、ネットでちょろっと調べてみたところ。

生物は環境に影響を与え、環境は生物に影響を与える。生態学研究の主要な関心は、生物個体の分布や数に、そしてこれらがいかに環境に影響されるかにある。ここでの
「環境」とは、気候や地質など非生物的な環境と生物的環境を含んでいる。わかりやすく言い換えるならば、生物界における"歴史学"が進化論なら、"経済学"にあたるのが生態学である。（出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』）


「生物学における”歴史学”が進化論なら、”経済学”にあたるのが生態学」ってところが個人的に興味深いです。歴史も経済もどっちも最近興味あるもんで。

…しかしまぁ、いま現在「エコ」って言ってまさか「生態学」なんていう19世紀以来の伝統的な学問体系を思い浮かべながら使ってる人はいないよなぁ（苦笑）。
なんでコレがそうなってアレなんでしょうかね？世の中謎だらけです。。

そのへんの言葉の厳密な定義はともかく、我々が今の文脈で使ってる「エコ」というのは、さらっと要約すると「資源やエネルギーが無駄遣いじゃない」「地球環境に良さそう」というくらいの意味ですよね。
まあ遠くないだろうとは思います。間違った考えでないとも。


ただ。
私個人にとっての「エコロジー」を述べよ、と言われると、それは別に商品としてのエコバックを買って持つことや、マイはしをカバンに入れて歩くこと等を必ずしも指していない。（それが悪いとは全然言いませんよ？）

それは、恐らく語源の方のecologyに近いかも知れませんが、


「見究めようとする意志」


そのもの、と言えるのかなと。
何を見究めるのかというと、それはもう「全てを」です。

「これが、このような姿に至ったのは何故か？」「何故そうでなければならなかったのか？」という根源的で本質的な問い、を執拗に追い求めること。歴史も、経済も、文化も、教育も、家族も、個人も、思想も夢もシュミも全てがそこには含まれ得る。
「真理」を追求すること、と言ったら少し大げさになるのかなぁ…（照）。
でも、そんな感じです。


生物に例えると、「○○の生態」と言った時、それは

・どこから派生した種の
・どのくらいの個体数が
・どんな場所に暮らしていて
・どんな物質から栄養を取り
・どんな物質を体外に排出し
・どのような繁殖方法で
・どのくらいの期間生きるのか

こういったようなことを通常、調査の対象とするのだろうと思います。

とても極端で面白い例をあげると、例えば深海の火山噴出孔の周辺にはメタンガスを主たる栄養源とする世にも奇妙な生き物が生息しています。外見的にも、目はおろか内臓もあるんだか無いんだかよくわからないという珍妙さ。でも、生きてます。
その周囲を調べてみると、他にも体の表面が本物の金属（！）になっているＳＦの宇宙生物みたいな甲殻類的なのもいます。

こういうオカシな連中は数億年の歴史を持つ深～い洞窟の奥深くなんかでも、例えば美しい純白のレース編みのようにキラキラと連なって垂れ下がる細菌のカタマリ…のように、時々発見されています。（当人？達にとっては”発見”も何もないでしょうが。。笑）これ、きれいだからと触ったりすると分泌物の硫酸に溶かされます。

恐らく、知られていないだけでまだこの地球上には、たくさんたくさんこういう摩訶不思議な生態を持つ人類の知らない生物が存在しているのでしょう。
想像すると何だかわくわくしますね♪（え？私がヘンなんですか？？汗）


…このように、「生態」というものを考えると、それはまさにその生物が長年置かれてきた環境に応じて千差万別であり、百花繚乱の進化の見本市のようなものであると言えるでしょう。
そしてそれは、とりもなおさず「地球という環境の豊穣さ」の証拠であるとも。
多様性というのは豊かさそのものですから。


では、なんでその「生態」をいろいろ考えることがお前にとって「エコ」なんだ？という話になりますが。

まぁよく考えてみて下さい。

人間も生物です。
地球上のいろいろな環境に適応して、これまで数千年も生きてきました。（原人とか入れると数百万年単位になりますが）
当然、環境はいろいろです。
豊かな土地もあれば、生物にとって厳しい土地もある。その「暮らしやすさ」に応じて、その土地が養える生き物の定数もだいたい決まってきたのです。

ところが、その世界中の異なる環境に「一律に同じ豊かさの基準」を当てはめ、同じような暮らしを持ち込もうとした。

それが19世紀の欧米で起こった産業革命以来の、人類文明のありかたです。


世界中どこに旅行してもマックとスタバとインターネット・スポットがある。
熱帯から寒冷地に移動しても、エアコンによって室内温度は常に22度前後。
乾燥地帯の広大な農地で、大量の水を必要とする小麦などの作物を作る。
牛肉を、あるいは巨大なマグロを食うために大量の燃料を費やして輸入する。
たった10分ていどしか離れていないコンビニに行くために、自動車に乗る。

東南アジアの国とかに行くとよく「病気になりそうなほど寒い（冷房が）」とか言われてますが、あれも元をただせば湿度の高い熱帯気候の中で欧米式のスーツを身につけるために、であるような気もします。

つまり「適さないスタイル」を通すから、無理が生じ、無駄が出る。


無理、無駄はエネルギーの面でも考えられます。

日本のようなほとんど資源の埋蔵量が無い国でありながら、どうして化石燃料を必要としないエネルギーシステムになかなか移行できないのか？
「大規模発電でないと効率・安定性が保証できないから」
というのは、もはや言い訳にもなりませんよね。これほど原油価格が上がってると。

似てるかどうかわかりませんが。大昔、ＳＦなんかに出てくるコンピュータは「マザーコンピュータ」といって巨大なスーパーコンピュータ的なたった一台の超高性能なマシンが全てを管理、運用するのが理想だと考えられていた。それだけコンピュータが貴重だったのですね。
では、今はどうなっているのか？
私はそちら方面の専門家ではないのであまり突っ込んだことは語ることは出来ませんが、でもそんな私程度の人間でも、今のネット社会が「たった一台の巨大なマザーコンピュータ」に支えられているのではない、ということくらいはわかります。
聞くところによると、かのグーグルのサーバは世界中に分散していて、そのサーバ群が常に連携しあってあの超巨大なシステムを稼動しているのだそうです。
（すいません、うろ覚えなんで違ってたら誰か訂正して下さい。。）

同じようなことが、どうして電力などの分野では出来ないというのか？
ある巨大な一箇所で作られた大量の電気エネルギー、しかしそれは遠方の使用者に届くまでに膨大なロスを生み、そこに達するまでのインフラもそれこそ巨大です。

もっと使用者のすぐ近くで、自分の家の屋根で発電して自分の家族の使用分くらいはまかなえるようにする…どうしてそうならないのか？余りを売るとか？
やはりそれでは安定供給に問題がある、と電力各社は言います。
では一つの発電方法に頼り切るのではなく複数組み合わせてはどうか？とか。

さらにそれ以前に、もっと住空間自体の断熱性（新素材の断熱ガラス等）向上、家電まわりの熱効率の向上、省電力化…そういうのを推し進めたらどうなのか？
案外まかなえちゃったりするんじゃないのか？

…そうならないのは、既存の利益団体にとって得にならないから、なのでは…？


このあたりまで考えてきたところで、歴史との関わりが出て来ます。

かつて日本も、他の多くの国でも、エネルギー資源をめぐって多くの悲惨な戦争が起こりました。
大規模な戦争は、国民感情同士の憎しみが起こす、ように思われがちですが、実際には、現実的な利害関係のほうが大きいようです。
つまり、食えない、困る、となりから奪る―という太古からのパターンです。

大日本帝国は石炭・鉄鉱石などの資源を求めて中国東北部に侵攻し、またアメリカに禁輸措置を取られた重油を求めて東南アジアに侵攻した。
その結果が、あの無残極まりない敗戦でした…。

エネルギー政策は、国家の存亡を左右するほどの大問題なのです。
だから、これほどまでに紛糾し、利害が衝突しあってなかなかことが進まない。


本当の本当に重要なことは、エコバックやマイはしのレベルではない、はずです。

しかし、それを言うのは余りに途方も無く、困難なので、問題を小さくて簡単なことに入れ込んで、どうやら収まったフリ、を皆でしているだけなのでしょう。
逆に言うと、我々に出来るのはそのレベルくらいしかないとも言えるのかも。。

「真理」はどこにあるのか？を、忘れたフリをしてるような気がする。



また、昨今の「エコ・ブーム」とイコールで結ばれてる感のある「地球温暖化」という用語ですが。
これについても、まだ各分野の学者達の間では見解が分かれているところがあるのだそうです。

もっともショッキング？な説では、

「地球はそう遠くない将来に寒冷化する」

というのもあります。
こういって警鐘を鳴らしているのは、天文学者です。
彼らは常に、惑星・恒星の世界の単位、数億年のスパンで物事を見る。
その説によると、「現在の我々人類が繁栄しているのは、地球全体の活動で見たら間氷期、つまり氷河期と氷河期の間のほんのわずかな小春日和に過ぎない」もので、その間氷期としても既に地球の歴史上、異常なほどに長い期間が経過していて、いつまた氷期に移行してもおかしくないのだとか。

もしそうなった時、つまり寒冷化した場合というのは、温暖化の場合とは比べものにならないくらいの化石燃料を消費する（暖房需要ですね）が、今のペースで石油を浪費し続ければもう数十年という限度で世界中の石油は枯渇する。そうなったら、人類が地球上で生きられる範囲ははるかに狭まることになり、文明は崩壊するだろう…。
だから、今ある化石燃料を出来るだけ細々と食いつなぎながら、その間に大急ぎで全世界的に再生可能エネルギー・低炭素社会への移行を図らねばならないのだ、と。

「寒冷化」の可能性については、海洋学者の一部も言っています。例えばメキシコ湾流の変化、もしくは消滅によって将来、全ヨーロッパは”シベリア化”するとか。
※説明するともの凄く長くなるのでこれらの説の詳細はここでは省きますが。。


注意しなければいけないのは、これらの説を唱える科学者たちが「…だから温暖化なんてほっとけば良いんだよ」なんてことは微塵も言ってない、ということです。

むしろ彼らは非常に大きな危惧を抱いている。

それは、「あまりに性急に”ある現象の犯人探し”をして、まだ検証途中の結果にたいして一喜一憂しすぎること」を警戒しているのです。

温暖化＝ＣＯ２、と単純に図式化し過ぎることで、ではそれを覆すような調査結果が現れた時に果たしてどうなるのか？
ＣＯ２は大して減らせていないのに、仮に寒冷化の兆候が現れてきたりしたとして、そのことが人々に「科学への決定的な不信感」を抱かせはしないか？
自分たちはそれを最も恐れている、と言っていました。

もっと冷静に視野を広く。未知のことに対して慎重に。自然に畏れを持て。

あまりにも性急に答えを求めすぎるのは、かえって危険だ、ということです。



生きものが、どんな姿をして、どんなありかたで生きているのか。

それを考えることが「生態」であるとして、では人類は今、どんな「生態」を持っていると言えるだろうか？

底無しの欲望。
途方もない無駄。
自然への横暴。
共感の欠如。
経験や、知性に対する蔑視。
異なる個性の圧殺。
未来に対する怠慢…。


我々人類が、何を「栄養」とし、何を「排出」して生きるのか。
この地球上で、どのような「生態」を持った存在として振舞おうとするのか。

これからもずっと、大量の「石油」を食って、「退廃」と「憎しみ」を排出して生きるのか？

真に問われているのは、極論すると、そういうことです。


そうした生物としての大きな大きな仕組みを変える事、それこそが本当の意味での「エコロジー」だろう、と私は考えるのです。


もちろん、目の前の小さな一歩から始めることを無意味だなどとは思いません。
しかし、常にそのずっと奥にある「本質」を見究めようとする姿勢を忘れてはいけないだろう、とも思うのです。

とりわけ、多くの人に思想なりイメージなりを伝播する使命を負うべき表現者は。



何故ならイメージとは、数々の歴史が証明しているように、時として暴力的なまでに強い力を持つ諸刃の「武器」でもあるのだから。



「エコロジー」という言葉。

使うのなら、皆様にもそんな緊張感を持って使って頂きたいと思います。





…とまあ、こんな空気読まないヤツだから友達少ないんだよ。。（爆）</description>
      <link>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29538/</link>
      <guid>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29538/</guid>
      <category>知識・情報</category>
      <pubDate>Thu, 19 Jun 2008 17:29:30 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>ネットは人間の孤独を救えるか？</title>
      <description>
ハイ。また画像と内容あんま関係ありませんっ。
なんか、毎度タイトルはともかくとして…金渡しちゃってるじゃん～この絵？（笑）
別にそういう話ではない、と思うんですが。。アレ？（ってどういう話？？）



前々回に引き続き（？）例の電気街での大事件のことに関連して少しだけ書こうと思います。
お時間と興味ある方のみさらりとお読み下さいませ。

連日の報道で少しずつわかってきた事を繋ぎ合わせてる状態ですね。
犯人の当日に至るまでの行動とか、それまでの心理状態（供述による推測の域を出ないが）とか…。
犯罪そのものに関する言及は、まだ情報が断片的すぎる今の段階では、避けるべきだと思うのでここではしません。別の角度から考えようと思います。


それは現代の孤独な若者としての犯人と、ネットのことです。


事件後かなり早い段階から、まるで日記のように彼が一人で書き込み続けていたという掲示板の内容が新聞等に繰り返し取り上げられていました。部分的にせよご覧になった方は多いと思います。
その中に確かこんな内容のくだりがありました。


「ネットを卒業すれば幸せになれるという人がいる

自分の唯一の居場所をなくせというのか

それは、自分に死ねということか」


ネットを「自分の唯一の居場所だ」と言う。それを失うことはすなわち「死ぬこと」と同じだ、とさえ。
だが、そんなにも彼が愛着を感じ、依存していたと思われるネットのほうは彼に対してどうだったのか？

掲示板には、断定は出来ないまでも「文体などから恐らく彼本人のものと推測される書き込みばかりがえんえんと続いて」おり、他の参加者がほとんどタッチしていなかったらしい様子が伺えます。
それでも、数人の他者とスレッドの中で会話を交わしたらしい形跡はあるのですが、その会話の中でも彼はひどく子供っぽいスネかたをして「周囲の反感を買い、結局はみんなに見捨てられて」しまったようで。

つまりネットの中でも、彼は孤独そのものだったろうと思われるのです。
ネットの外の現実世界と同じく。

それでも、ネットに固執し続けた。何故か？

たとえ書き込みが見られていなくても、自分と言葉を交わしてもらえなくても、そこには常に「誰かがいる」と思えばこそ、ではなかったでしょうか。


事件を起こす直前、犯行予告とも言える内容の書き込みを、わざわざ一目瞭然なタイトルをつけたスレッドというかたちで発表したのもネットの中であり、それについて彼はこう供述したそうです。

「ネットを見た誰かが警察に通報して、自分を止めてくれると思った」

事実、このスレッドを見た数十人の人間から掲示板管理会社に対して「危ないんじゃないか」というメールが寄せられていたそうです。が、残念なことにこの日が休日で、このメールを見た会社の人間がすぐにはいなかったために、通報が遅れてしまった。
結果として、あの大惨事を止めることが出来なかった…。

これは結果論に過ぎません。この通報がしかるべく届いていたとして、本当に事件を未然に防ぐことが出来たかどうか、わかりませんし。いや、恐らく無理だったでしょう。ボディチェックのように、数千人からの人間の「心」を瞬時にスキャンできる夢の装置か何かが開発されでもしない限りは。

確かなのは、彼が何でもいいから「自分を止めて欲しい」と思っていたという事実。

犯行声明というのは大抵が「事件を起こした後」で、「自分に繋がる証拠は極力残さないように」作成し、メディアや警察等に送りつけられるものですが、今回のケースは「犯行前に」それも「逐一、自分の現在の居場所や移動ルートを明かしながら」実況中継のごとく書き込みが続けられた。


あるいは彼は、最後の最後の最後の瞬間まで、待っていたのではないでしょうか？

これから破滅的な行動に走るであろう自分を止めにきてくれる「誰か」を。


もしこのエントリを読まれている人の中に「止めて欲しいだぁ？甘えるな！」とか思っていらっしゃる方がいるとしたら、それは少し違うと思います。

今回のこの犯人の行動は悲惨な「殺人」であると同時に「自殺」でもあるからです。
（そう感じている方はきっと多いと思います）

皆さんは、自死（＝自殺）に至る人間がそんなにも揺ぎ無い強固な意思をもってことを為すとお思いでしょうか？
実はそうじゃないんです。
ある精神科医の先生の著書で知ったのですが、自死を試みる人はみんな、直前まで迷って迷って、ためらいつづけて、本当に苦しんで、「助けて欲しい」というサインを周囲に出し続けて…でも届かなくて…そのあげくに行動を起こすのだそうです。
それが「未遂」に終わるか「既遂」となってしまうかは、まさに紙一重で。

実はみんな、本当に「死にたい」と思ってやってはいない。
「死にたいくらい辛い」から、「死ぬための方法を考えて」やっているのだけど、その行動の最中でさえ、心のどこかでは「生きていたい」と思いながらやっている。
たくさんの未遂・既遂者を診て来た精神科の先生はそう書かれていました。

世の中にそれこそいくらでもいるであろう、「もう死にたい…」と思っている人間と、本当に行動を起こして、自らの手で「死んでしまった」人間とを分けるものは、ほんの少しの差異と、ある種の「運」でしか無いのではないか…？

上記の文の「」の中の「死に」を、「殺し」に換えて見たらどうか？

…ハッキリさせておきますが、私は今回の事件で、この犯人を弁護しようとかいう気持ちは毛頭ありません。犯罪は犯罪であり、彼は許されないことをした。また、残念ながら被害者となった方々に何の落ち度もないことは今更言うまでもありません。
しかし、同時に私はこうも思っているのです。

彼の「自爆」ともいえる行動を止められなかった「社会」の側には、本当に非は少しも無いのか。

このような事件は、本当にどこかの段階で止めることは出来なかったのか？


彼が最後まですがり続けていたネットは、彼を救う役目などは果たさなかった。
その孤独を癒すどころか、より深く救いの無い状態に突き落としていった。
確かにたくさんの人間がネットにはいて、彼の書き込みを目にしてもいたけれど、でも、それだけのことだった。

彼のコミュニケーション能力の低級さ、を言う人々もいます。
でも、じゃあご自分のコミュニケーション能力にそんなにも自信がおありですか？


私は自慢じゃないですがリアル世界では自分は相当「性格悪い人」だと思います。
かなり低いと思ってます、自分のコミュニケーション能力。。
もしこのロフトワーク内で「もぐさんてイイ人だ」とか思ってらっしゃる人がいるとしたら、それは誤解だからすぐ改めたほうが良いです（爆）。

私は、現実世界でも概ね「自分のことしか考えていない」。
よく「人の話を聞いてない」し、「空気読まないで言いたいことを言って」しまう。
小学校くらいまでは本当に文字通り「他人の気持ちがわからな」かった。

自分のしたことで人を傷つけている、ということにも全然気づけなかった。
そのくせこの自分だけは、人一倍以上に、傷つきやすかった。
誰も自分を理解してくれることなんかは無いと思って、いつも内側だけを向いてた。
自分から他人に話しかけたり、すり寄るようなことをしたら負けだと思っていた。
馬鹿にされたり、負けるくらいなら、一人で居たほうがマシだとずっと思ってた。


でも、こんな私を少しだけ変えてくれた人がいました。

初めてアルバイトをした時、ある店で、ま～仮に「山田さん」としましょう（笑）。
年は同じくらいか、いっこ上くらいの「山田さん」という人が先輩としていました。

腰まである長いキレイな髪をしたとても美人さんで、いつもニコニコして明るくて、仕事が速くて誰からも好かれていて…私はそういうタイプはつねに嫌いなので（爆）、最初は正直近寄りたいとも思いませんでした。。

店の休憩時間も、パートのおばさんとかはみんなで食堂でおやつかなんか食べながらくっちゃべってるのが普通でしたが、私は一人でロッカールームとかに座ってぼーっとしていました。親しくない人と無理して喋るのはめんどくさかったからです。

ある時、「山田さん」が一緒に休憩に行くことがありまして。
彼女が本当に何気ない感じで、「ねえ、食堂でお菓子食べようよ。私がおごったげるから」と言ってきました。それを聞いて私は内心、心底ビックリ仰天しました。
何でこの人がそんなことを言うのか、理解できなかった。
どうして未だ親しくもない人間に、一緒にいようなんて誘えるのか？
あまつさえ自分がお菓子をおごる？！どういうことなんだこれは？
何かの陰謀か？？（どんだけアホなんだ。爆）

たぶん自分の顔には警戒心とか？マークとかがいっぱいだったと思います…（笑）。
でも「山田さん」はそんなことはお構いなしで、あれやこれやと話しかけて来る。
細かい内容はもう忘れてしまいましたが…でもその会話は、不快なものではなかったことだけは覚えています。それどころか、とても楽しいものでした。

「山田さん」はこちらが答えにくいようなことは一切聞かず、上手に共通しそうな話題を拾い上げて、それをふくらませて、私のおっかなびっくり話す内容にいちいち綺麗な目を丸くしてびっくりしたり、お腹をかかえて笑ったりしていました。
「あんたって面白いね～♪」という言葉が、けっして馬鹿にした意味ではなく賞賛の言葉であると心からこちらが思ってしまうような…天性の聞き上手でしたね。
恐らくとても頭のいい人だったのでしょう。
彼女が愚痴とかを言ってるところも、私は一切記憶にありません。
自分とそう年も変わらないのに、どうしてあんなに人格的に出来ていたのか…今思うといろいろ不思議な感じもしますが。。

でも、あの人と出会って、仲良くなってもらったことで、私は少しだけ自分が「大人」に近づけた…ように思っています。
「ひとに話を聞いてもらうことがこんなに気持ちのいいことなのか」ということがわかって、それから少しは意識して他人の話も聞けるようになった、だろうから。

「山田さん」は、本当に楽しそうに他人の話を聞く人でした。
そこにうわべだけのお付き合いしてる様子や、無理して話を合わせてる感じや、こちらの機嫌を伺うような臭みとかはみじんも無くて。
自分の知らないことは知らないこととして素直にそれに驚き、感心し、新しく知ったことを喜ぶ。心が動いたことをごく自然に表情や仕草、全身で的確に表現できる。
本当に、誰の話も「感動して」聞いているようなのでした。

私はといえば、そういう「山田さん」を見ているのが心底ここち良く、「山田さん」がアンタって面白い！とお腹を抱えて笑ったり、喜ぶのを見るのが本当に嬉しかった。もっと笑わせたり、感心して欲しいと思った。
それは小さい子供が若くて優しいお母さんに「今日あったこと」をいちいち話して聞かせているようなもので。しかも、そのお母さん（つまり「山田さん」）は、けっして「今いそがしいから！」とか言わずに、いつも笑って聞いてくれるのです。
つまり、彼女は言葉の真の意味で、素晴らしい「大人」だった。


安心感、といえば良いでしょうか。
（直近の家族以外の）他者とのコミュニケーションに対して安心感を持てる。
これって、実はけっこう得がたいことだと思うのですが？

「山田さん」は、会話を通して私という人間の総体をまるごと受容してくれていたと思います。数々弱点もありつつ、でも、けっこう面白いやつだ、という形で。
そしてそのことを自らの表情でこちらに伝えてくれた。
彼女の笑顔は１００も、１０００もの情報をこちらに与えてくれました。
「アナタが存在することを今、私は喜んでいる」という本当に稀有な情報を…。


ひるがえってネットの世界。
そこに、「山田さん」のような人を、私たちは見出すことができるでしょうか？

ささいなことで激昂したり相手を攻撃したりしない。
自分の知らないことを素直に認めて、新しい知識や出会いを喜び、感動を表現する。
さまざまな他人の存在をまるごと受け入れて、動じず、朗らかに笑っていられる。

本当の意味で「大人」である人格。

今のところ、あまりいない…ような気がしますね。。自分を含めて（落）。
何故かと言えば、日本におけるネットが匿名性の世界であることが大きいような気がします。都合が悪くなれば、即座に関係を切れる。これでは成長のしようがない。


人間関係というのは、樹木を育てるようなものだと思います。

長い年月、雨風に耐えて、水をやり世話をし続けなければ、広い根っこを張ることも、枝葉を茂らせることも出来ない。
それをまだろくに芽も伸びきらないうちに引っこ抜いてどっかに移して…では大きく育ちようがありませんね。
また、いま植えて育てようとしている木がいったい何の木なのかもわからないのではどんな手入れをすれば効果的なのかもわかりません。
大きな木として育つためには、自覚的に誰かが手入れをしなければなりません。
放りっぱなしの草木なら、それは「雑草」としか呼ばない。
雑草では、豊かな森にはならない。


ネットは、はたして「美しい森」になれるのでしょうか？

今の日本では、そこは弱肉強食のサバンナにしか過ぎないような気がします。
「何でも居ていいよ」と言っているようで、他と違っているものは結局はじきだされてしまう。誰にも見向きされずに、乾いてしまった骨が散らばってる気がする。

迎合できない人間はいらない、というなら結局それはリアル世界と同じなのでは？
結局、「土壌」の側に育てる豊かさが無いことを露呈しているだけではないか？



私が一つ、心の底から残念に思うことがあるとすれば。

今回の酷い事件を起こした犯人。
彼がえんえんと誰も読まない「日記」をネット上に書き続けていたのだとしたら。

いっそ自分の実名を公表して書けば良かった。

そんなに寂しいのなら、もっと思い切って自分の全てをさらけ出せば良かった。
「オレ様・痛々自虐日記」とでも銘打って、もっとリアルに大々的に自分の汚点を書き連ねたら良かったと思う。やるのならとことん、徹底的に、恥も外聞も無く。
どうせ誰にも届かないと思っているのなら、なおのこと。


そうしていたら、きっと何処かの誰かが「自分とそっくりな」彼に気づいたのに。

そうしたことを、私たちは「表現」と呼んでやって来ていたのに。

自分の暗部をもっと凝視して、ろ過して、圧縮して、それを「表現」にまで高められれば、もしかしたら誰も殺さなくても良かったかもしれないのに。

あんなに渇望していた「誰か」と繋がることも、きっと出来たはずなのに。



かつてあれほど人間的に未熟だった私が幸福にも「山田さん」と出会えたように。
この広いネットのどこかに、彼にとっての「山田さん」も居たかも知れないのに。



そして、いつかは彼自身が、別の誰かにとっての「山田さん」になり得たかもしれないのに…。




何もかも、全てがもう”手遅れ”になってしまったけれど。



※つい今さっき、興味深い記事を発見したのでこちらのも載せときます
↓
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0806/12/news036.html

「総務相が、ネット上の犯行予告を検知できるソフトの開発費を来年度予算の概算要求に盛り込むと発言した。費用は数億円」という報道を受け、開発者の矢野さとるさんは、犯行予告収集サイトを1人で2時間で構築・公開した。</description>
      <link>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29302/</link>
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      <category>未来・過去</category>
      <pubDate>Thu, 12 Jun 2008 06:09:30 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>ついに念願のDVD-BOXがっっ！！！（感激）</title>
      <description>



ついに…ついにこの日が来ましたっ！！
このために私はア○ゾンさんに登録したようなもの！（笑）



ドラマ「ハゲタカ」のDVD-BOXが我が家に到着しましたーーーー！！！！☆（万歳）



まぁご覧下さいよ～この渋カッコええパッケージデザインを…（息）。
（黒地に文字ってエ○ァじゃん、とかいう突っ込みはひとまずご遠慮下さい。。伏）

まったく御存知無い一般の皆様のためにちょろっと解説しておくと、このドラマは例の「ホリエモン・ライブドア騒動」があった、あの混乱と熱気が冷めやらぬ頃に企画、制作されたものでして。あのへんの事件をかなり下敷きにしてます。

実はドラマのそもそもの元になった経済小説（原題「ハゲタカ」「バイアウト」真山仁著）があるんですが、大分前に書かれていたそれとは若干、キャラクター設定とか場面設定とかもドラマ仕様に変えられてます。
でも、物語が本質的に伝えようとしていたことは共通しているので、作者さんもそのことは了解して下さったそうです。「主人公（鷲津政彦といいます）が、たとえ女になってもいいから、この物語の本質だけは変えないで下さい」と。
そしてそれは、見事に成功していると私は思います。
小説には小説の、ドラマにはドラマに向いた展開や訴求の仕方があるでしょうし。



この物語の本質―。
それは、このパッケージデザインに端的な文字で表されている通りです。



「誰かがいった

人生の悲劇は２つしかない


ひとつは、金のない悲劇

もうひとつは、金のある悲劇


世の中は金だ

金が悲劇を生む―」




この言葉の解釈の仕方は、見る人が100人いたらそれこそ100通りあると思いますが。

実は、このドラマであともう一つ表現されている本質的なことがあって。
それは、ドラマ本編のエンディングに流れる、英国の作家エミリ・ブロンテの

"Riches I hold in light esteem "

というタイトルの英語の歌詞の中に凝縮されています。

この曲が本当に素晴らしい。tomo the tomoさんの透明感のある声といい、空に鳴り響くようなメロディも…。（このドラマは全編、音楽も凄くいいのですよ！）
この曲と、エンドロールの映像を味わうためだけにでも、この作品は一見の価値があるとさえ思うくらいです。。（感涙）


ああ～もう、語りだすとそれこそ止まんなくなるのでこのへんでやめますが。。

本当に、本当に素晴らしい作品です。
映像的にも、物語的にも。むろん俳優陣も。
NHKという放送局の底力、その真価をいかんなく見せ付けたと言っても良い。
これだけは、スポンサーにがんじがらめの民放には作れなかっただろう（と、みんなネットとかで言っていた）。


いやまあ一応、私も夏コミに出す予定の漫画描くために、資料として今更ながら購入に踏み切った次第ではあるんですけどね。。（汗）
↓
http://c10002405.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx


でも、そんなことはどうでもいいんですよ実は。


自分が作るものなんか100円分も売れなくって構わない。敬愛する作品の「二次創作」でもうけようなんてことはこれっぽっちも思わないし。



そんなことよりも、このエントリを見た誰か一人でも多くの人が、この優れたドラマを「ちょっと観てみるかな？」という気持ちになってくれて。


そこから、何か自分の人生にとっての深いものを感じとってくれたら、それで良い。

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      <link>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29238/</link>
      <guid>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29238/</guid>
      <category>エンタメ</category>
      <pubDate>Tue, 10 Jun 2008 06:37:07 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>悲しみでは追いつかない</title>
      <description>
都内のとある路地。

一見するとビルとビルに挟まれた隙間にしか見えない。
ダンボール箱だのエアコン室外機だのの間をすりぬけて入ると、まるで野良猫の通り道のような細い細い路地にでくわす。（路地から大通り側を振り返って撮影）

その「通り」（と呼べるなら）は、幅はせいぜい１メートルあるかないかで。
一応、大げさに街灯なんかもついているところを見ると、それなりに人通りが多いってことか。
みっしり建物に挟まれて、日が差し込む時間は一日全体で何分間くらいだろうか…？
風通しなんかはもとより望むべくも無い。
階段でわかるようにかなり低くなっている。雨の日には水が玄関先を流れるだろう。


当然だが、都会ではこんなところにも人は住んでいる。


若い男性だとすれば、出されるゴミはビッグサイズのカップめんの空き容器が多い。
（それ一個で、とりあえず一時の満腹感を得られるので）
年齢がもう少し上だと、これに酒類がよけいに加わる。野菜など切れ端も、無い。
（つまみ類が立派な食事だと思っているふしがある？）
住人が女の子だったとしても内実はそれほど変わらない。一年中部屋の中には洗濯物がいっぱい干されているだろうくらいで。
（外に干すと盗まれる、コインランドリーの乾燥機は高いから…）

ささやかな手取り収入のほとんどはそのまま右から左で家賃に消えてしまう。


そんなにしても都会に住むことにこだわり続けるのは、そこになら何とか「仕事」があるからだ。
「自分がいても良いかも…？」とすがりつける場所が。

まだまだ田舎になんか帰れない、と思う。
”故郷”と呼ぶべき場所が存在するとして、そこにあるのは「孤独」と「みじめさ」と「無為」だけ。
それすらも、今では何も無いかもしれない。

結局、”ここ”だって少しも「自分の場所」なんかじゃない、と知っている。


顎を突き出しながら一段ずつ階段を上がる。
路地を抜け、明るい大通りに出る。

一見、自分と同じくらいの年恰好の若者達が、楽しそうに笑ったり喋ったりしながら歩道を埋めつつひとつの方向へと流れて行く。
そこに、自分が混じってもひょっとしたら違和感無いんじゃないかと思う。
でも、やっぱり、何かが違う。
この連中は、きっと「今、財布の中にあるこの小銭だけであと一週間本当に生きられるだろうか…？」なんていう、ひりつくような胸の痛みなどは感じていないから。
もし感じていたら、こんなに能天気に馬鹿笑いなどできるはずがないし。


部屋には戻りたくない。息がつまるから。
せっかくたまの休日なのに、ほこり臭い人ごみの中にばかり行きたがる。
人に会うと金がかかるし、第一、まともに友人と呼べるようなものも多くない。
転々と短い周期で変わる職場での人間関係は、その都度リセットされてきた。

結局、七面倒な近況報告から始まらずに話せる相手など、この「自分」だけだ。
といってもそれは延々と将来の不安や淡い期待、裏切られた失望、愚痴と恨み言とがループしているだけで。
人ごみの中で見回して何度となく思うことは。


…いや、いっそ全てをこの手でぶち壊してしまえたら楽になれるだろうか？
自分の中で荒れ狂っている嵐と、外の世界とのバランスを取り戻せるだろうか…。


そんなことを考えるでもなく考えながら、気がつくともう日が傾いていて、明日もまた仕事に行かなければならない。
朝から晩までこき使われてもしょせんは「人件費」という分類を持った備品で、人間としての扱いも受けない仕事。
それでもちゃんと金がもらえるならまだマシだろう。
今月もまたどうにか食べられるだろうから。


外の世界で、自分と”対極”にあると思うもの。

ぬくもり。温かさ。
柔らかなもの。
人との信頼。
満ち足りているという感覚。（金でも食欲でも…）
誰かから大事にされ、守られている存在。
明るい未来があると信じること。

手に入れられないのなら、自分にはこれらを憎むという選択肢しか残されてない。

自分だって確かに人間なのだけど。
現状で人間らしさを求めるなら、惨めさのあまりそのまま自分が崩壊してしまう。


結局、ずっと欲しかったのは「自分が居てもいい」と思える場所。


たったそれだけのものが、どこまで行っても手に入らない…。



夕方、何もしてないのにぐったり疲れきって、また路地裏の部屋に帰って来る。
玄関先のゴミの山と、洗濯物に憂鬱に出迎えられる。


また、エンドレスに一週間が始まる。






※この文章は一部フィクションを含んでいます
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      <category>未来・過去</category>
      <pubDate>Mon, 9 Jun 2008 05:16:00 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>コミックマーケット７４（夏コミ）に参加しますよ！☆</title>
      <description>
どひゃ～！！（汗）ついに正式に決まってしまいました！
つい先日、初参加を申し込んでいたコミケの当落が判明致しまして。


なんと、幸運にも初申し込みで、初参加できることになりました！！！☆

一応、現時点でわかってる配置ですが
↓
イベント名：コミックマーケット７４
開催地：東京ビッグサイト
ブース配置：8/15（金） 西地区 "そ" ブロック 10b

になります。（また直前にお知らせしますが。。）
御都合宜しい方はお運びいただけるとそれはかなりうれしいです～♪♪
※この画像のイラストの感じ、で二冊ほど新作出す予定です…


いやいや～ビックリしたね！
だって経験者の知り合いが口をそろえて「最初はまず落ちるよ」って言うから、たぶん自分らも無いだろうと思って軽く応募した面が無きにしもあらずだったので。。

まあ…恐らく、思い当たるフシとしては、応募したカテゴリ？の総数自体が相当少なかったんだろうと…（笑）。
アニメとかジャ○プ漫画とかなら、そりゃ競争率高かっただろうけどね。。


…実は、今頃になったのはちょっと御報告をためらった事情がありまして。
ロフトワークとかでこういうイベントとか参加される方々というのは、恐らくほとんどが「オリジナル雑貨」とかの、つまり自分で完結できる作品だと思うのですよ。

しかし今回、私が人生初めてのコミケに申し込んだ作品は、いわゆる
＜二次創作作品＞
なのですね…。あるテレビドラマ作品の。
何かと賛否ある表現形態ですから（ちょうどタイムリーに？こちらの特集でも著作権関連の記事が連載されてますね）、ちょっとだけ考え込んだりもして。。

でもやっぱり出るからには堂々と公表しておきたいなと。
それはひいては、自分のスタンスをはっきりさせることにもなると思いますが。


私個人は、（原作や原作者を貶めるようなものは論外として）一概に全ての二次創作を否定する立場ではありません。

元になった作品への「尊敬」、「愛情」がベースになっているもので、「原作の商業的な利益を損なわない範囲で行われる活動」であれば、それはかえって原作そのものにも良い影響を還元できる可能性もあるだろうと考えるからです。

「あらゆる創作の原点は模倣にある」
という考え方は、特に実際に平面や立体などの作品を作っている人間なら、ほとんどの人が賛成できるものだと思います。みんなそうやって先を行く誰かの模倣を通して今日まで育ってきたのですから。そのへんを法律だからといってがんじがらめにすると、やはり創作の環境は息苦しいものになり、活力を奪われてしまうでしょう。
お金のない若手でも過去の様々な名作と身近に接することが出来る今の世の中を、私はある面で素晴らしいと思っています。（当然、弊害もあるでしょうが…）

大勢の作り手、受け手が玉石混淆に殺到し、熱気が渦巻いている感のあるイベント会場や、それにネットそのものもそうだと思うのですが「混沌」の中からこそ湧き上がる活気や創造力もあるはずです。私もそこから多くの刺激をいただいて来ました。
このロフトワーク自体が、考えようによっては「豊かな混沌」の装置ですし。
※もちろん盗作や悪質な権利侵害の問題がきちんとクリアされた上で、の話ですが


そしてもう一つ、二次創作の効用があるとすれば、それは「切り口を変えることで元の作品に新たな光を当てる」ということが可能なのではないかと。

例えば、プロのミュージシャンが過去の偉大な先人の名作をカヴァーする、とかもそういうのに入ると私は思うのですが。
「この作品で、こんな歌い方、演じ方もあるのか！」と新鮮な驚きを持つ場合が結構あります。あれは決して元の作品を貶めようとかいう意思があってやるのではなく、むしろ全くその逆で、「埋もれているこんな素晴らしい楽曲があるんだ、みんな俺が自分なりのやり方で歌うから、とりあえず聞いてみてくれよ」という熱い叫び、誰かへの呼びかけだからなんだと思うのです。

そのことで時と共に歴史に埋もれてしまった名作に再び脚光が当たるのなら、それは結果として業界をより豊かにする以外の何ものでもないと。（無論、権利者がいるのなら楽曲使用料も払ってるでしょうが）


今回、私が確かにそれまでためらいのあった「二次創作」での作品制作にチャレンジしてみたいと思ったのも、その元になった作品への深い深い愛着があったからです。

ご覧になった方も少しはいらっしゃるかと思うのですが、昨年NHKの土曜ドラマ枠で６回シリーズで放映され話題になった「ハゲタカ」という硬派な経済ドラマです。
企業買収というお堅いテーマを扱っていながら、スタイリッシュな映像と毎回息もつかせぬスピーディな展開に大ハマリした人も多かったようで、放映から一年以上たった今でも、海外での受賞等、ファンの間では話題が尽きることがありません。

…しかし、これほど一部の人間の心を”鷲掴み”にした名作ドラマでありながら。
いわゆる「視聴率」の数字は、かなり低かったらしいんですよ。。

冬にはファン念願の再放送もあって、私も周囲に大いに宣伝しまくったんですが、それでも数字的にはさほど振るわなかったそうで…。いろいろ受賞してさえそうなのかーと、かなり落ちた記憶あります。。。（涙）

その、「数字が低かったらしい」ということが私に火をつけたといいますか（笑）。

も～悔しくて、悔しくて仕方がなかったのですよ。。
これほど物語としても映像技術的にも優れている、素晴らしい作品が、この国中でそんなに少しの人間にしか視聴されておらず、大多数の人はその存在自体をほぼまったく知らないらしい、ということが。（友人らにも再三「何それ？」と言われ。泣）
どうにかして、もっとみんな知ってくれよ！という気分でしたね。

しかし現実には、ほとんど無名のイラストレーターに過ぎない自分一人に出来ることなど、そうあるわけもなく。。
放映終了後はどんどん番組に関する情報も潮が引くように少なくなっていくし…鬱々としていた時に、ネットの中である方のブログに出会ったのです。

その人は、何か具体的に形にするというあてもなく、ひたすら淡々と、自分の好きなテレビドラマや漫画なんかのことを、色んなシーンを空想しては短編小説みたいな感じで自分のブログに書き綴っていました。
空想に出てきたドラマの登場人物の名前で、私も検索にひっかかったんですね。

そのお話がほんとに面白かったのです。
自分がかつてドラマ本編に抱いていた感情とすごく重なる部分があって、そうそう！そうだよね！そこがヨカッタよね！！と激しく同感しまくりながら、度々吹き出したり、じーんと余韻にひたったりしながら、気がつくとそのブログ内の関連する全てのエントリを読了してしまっていました。

即座に、私はブログのコメント欄でその人に「素晴らしかった！」旨の感想を伝え、何度かやりとりした後で「私と一緒にこの作品へのオマージュとして何か作りませんか？」みたいな言葉でお誘いしました。
最初その方は凄くビックリされたようでしたが、結局は、また新しく専用ブログを開設して、その方が二次創作小説として文章を書き、私が毎回それに挿絵をつける、という方法で小説連載を始めてしまいました。
ええ、私が押し切ったんです…☆（その節は散々ご無理言ってごめんなさい。。）

かなり勢いとノリで始めてしまったそのブログ小説は、今も不定期で連載してます。
（「ハゲタカ　スピンアウト」とかでググると割と上のほうに出ます☆「地平の意義」というタイトルのやつですね。。うちのパロディ部屋も出ちゃうかも…笑）
※一応、イベント関連サイトの紹介ページURLからも行けます↓
http://c10002405.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx
そろそろ結末も自分たちの中では、一応？見えてきています。こないだは某洋菓子チェーンの喫茶コーナーで５時間くらいミーティングしてきましたし（爆）。

私には、連載を始める最初の段階から既に「ちゃんと話を完結させ、本にして出す」という明確なゴールがありました。
それも、可能な限り大きなイベントに出す、という。（だから、今回はコミケにと）
だって私はこの作品（ドラマ･ハゲタカ）に、ふたたび大きなムーヴメントを起こさせたいという、そのことを、ハッキリと目指してるんですから。
ごくごく内輪で少人数で楽しむだけで良いのなら、金かけて本にするまでもない。
※一緒に付き合ってやって下さってる方には、正直そこまで大きな野望（無謀？汗）が共有されているかどうかは定かではありませんが。。


そう。
私は不遜にも、
「まだこの作品の価値を知らない人がいっぱいいるんなら、”私が”イラストや漫画を描いて、それを世の中に知らせてやる！」
などと思ってしまったのです。（ああ…考えると恐ろしいような…汗）


でも、実はよくよく考えてみると、こういうことって自分が今まで情報サイトとかでやらせていただいてきたお仕事で絵を描く姿勢と、何ら変わりが無いんですよね。

私はいつでも、「著者さんが一所懸命に書かれた、こんな素晴らしい記事を一人でも多くの人に目をとめて、読んで欲しい」つまり「存在を知って欲しい」と、そのためにこそ努力して来たのですから。
知らせたい対象が変わったのと、二次創作というスタイル、くらいです違いは。

やるからには全力で描く、という点も変わりませんし。
原稿料のあるなしには関係なく。。


いや…それだけじゃないかな。。
きっと自分の中でも「欲」みたいのはあったんでしょう。
「この物語の、この登場人物の顔を、自分の手で描いて見たい…」という作り手としての欲望が。そしてそれはノートの片隅にするシュミの落書きとかではなくて、より広く大勢の人間に見られる可能性のあるものとして出したいし、描きたいという。

ありますよね過去にも色々、「三国志をオレの手で」とか、「新撰組を私のキャラで」とかいう…ああいった類の野望、もあったかも知れません。。
俳優さんが演じるテレビドラマも、アニメとかと違って誰かが絵に起こしたものというわけではないので、そのへんでは「写している」という意識は全く無いですし。
イラストの、図像の上では、私のオリジナルだと思ってますね。（ぜんぜんあの役者に似てないよとかはとりあえずお許し下さい。。苦笑）


最後にもう一点付け加えるとすれば。
私は連載を完結させることで自分なりに「出会い」にも感謝したかったのです。

素晴らしい「元の作品」との出会い。
ネットを通しての、同じ作品世界を愛する作り手との出会い。
そして、ありうるとすれば、自分たちの本を手に取ってくれる人との出会いも…。

そういう「感謝する気持ち」が最もベースにあったからこそ、クリエイターとしては色々と賛否両論ある形式だと知っていながらも、諦めたくはないのです。


だって、声に出して言わなかったら「ありがとう」なんて絶対に伝わらないから。

心には本来、色も、かたちも無いから。


思いは、現実に行動に出さなければ、何の結果ももたらさない。

何もしなければ確かにリスクも伴わないだろう、けれども、伝えたい相手がいるのなら自分が動かなければ。
好きなら「好きだ」と自分の口から言わなきゃ。

でないと、その思いは”最初から無かったのと同じこと”になってしまう。


それが何よりも私は怖い。
恐らく、行動したことで誰かに責められることよりも。




というわけで、気が付いたらまたずらずらと長くなってしまったんですが（爆）、ようするにお伝えしたかったのは

「夏コミ出ますよ！よろしくね☆」

ってこと、だけだったりもします…なははは（笑）


…どんだけ面倒くさくなってるんだっつーの。。。（呆）</description>
      <link>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29190/</link>
      <guid>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29190/</guid>
      <category>イベント・個展・展覧会</category>
      <pubDate>Sun, 8 Jun 2008 05:31:10 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>紙のお仕事しました！「小学生の自由研究5･6年生」（成美堂出版）</title>
      <description>




こちら、自分がイラストを一部担当させていただきました子供向けの本です！
無事に先日校了しまして、今日サンプルが郵送されて来ました～☆

「小学生の自由研究5･6年生」（成美堂出版）

※他のイラストレーターさんの担当部分はぼかしてあります
※マスコットキャラのカエルと、女の子は見やすいように自分の元画像ファイルから持ってきてますが、色などはほぼそのままです
※工場相関図のページはIllustratorを使用しています
※個人ＨＰ「もぐニュース」のコラムページにはこれ以外の画像も載せてあります

いやぁ。
私、まったくのネット出身なもので、一からやる紙の書籍のお仕事ってほぼこれが初なんですよね…。（ネットからそのまま流用ってのはあったんですが）

なもんで、初めて立派な書籍になった自分のイラストを見ると、なんというか感無量であります！！（涙）ほんと独特な感動がありますねコレ。。。しみじみ嬉しい…。
そして、意外と？子供の本って豪華なんですね～！
自分で安～い同人誌とか作るようになってみると「え、このページ数でフルカラーなん！？（汗）」とかビックリしちゃいます。。

あ、でも！とても子供の本らしい、開くとワクワクするようなにぎやかで楽しい本に仕上がっているので、是非この年頃の子供さんが身近にいらっしゃる方は、夏休みの宿題対策に、本屋さんでお見かけの際は手に取ってみて下さい！（拝）
※もぐがイラストを担当させていただいたのはP50～P80、章でいうと実験、観察（と工作）とあるうちの、観察のパートです


このお仕事を通して、時間的にあまり余裕が無かったり、点数もこれまでで一番多かったりと、自分の紙の方の経験不足もあってやや難しい面もあったのですが、それでも何とかやりとげられたことは凄く大きな自信になったので。
お仕事を発注して下さった編集者さん、我々のイラストをレイアウトして下さったデザイナーさん、その他関係者の皆さんにお礼を申し上げたいと思います。

こんな駆け出しの私に沢山のページ数を任せて下さり、本当に有り難うございます！
この経験を励みに、これからも一層精進して参りますので！！（奮）

というわけで。
「小学生の自由研究5･6年生」（成美堂出版）
本屋さんでお見かけの際は、「もぐが言ってたのか…」と思い出してどうぞお手に取ってみて下さいませ♪
たぶん、オトナも楽しめると思いますので。。（工作とか☆）

これを機に、今後は紙の方にもお仕事拡げて行きたいですね！
どんどんとお声掛けお待ちしておりますので～宜しくお願い致します！（ペコリ）



…にしても。私のようなヒネクレ者が言うとあんま説得力なさそうですが（笑）。

いいもんですねぇ、子供の本って。。

こういうお仕事もなかなか新鮮で楽しいなぁ♪…って。
（んでもって、またこれからちょいお色気のオトナお仕事に戻るんですが。。爆）

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      <link>http://www.loftwork.com/user/8441/blog/29143/</link>
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      <category>仕事・制作</category>
      <pubDate>Fri, 6 Jun 2008 12:17:15 +0900</pubDate>
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      <title>企業の利潤追求と社会貢献、そして個人の幸福の理想のバランスは</title>
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↑だから…（笑）いやでも今回はちょっとは関係あるかもよ記事と画像！？☆（水のんでるところ。。）

先日ブログ更新したばっかりで、「これでしばらくはいいんじゃん？」とか悠長なこと考えておったのですが。
ついさっき見た『日経スペシャル　ガイアの夜明け』があまりに素晴らしかったので、言及せずにはおれなくなりましたとさ！
つうことでお暇な方、興味持って頂けた方は、しばしお付き合いを…（伏）。


番組内容は以下に引用致しますが。。
↓
6月3日放送
世界を救うニッポンの技術～企業が果たす社会貢献とは？～
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber/preview080603.html

一応ざっくりと説明申し上げますと。
番組の中で二つの日本企業の活動が紹介されています。

■一方は、工学博士号を持った研究者出身の経営者が率いる「水浄化剤」メーカー。
この薬剤の凄いところは、なんと原料が「納豆のネバネバ物質と、カルシウムとかを混ぜて加工したもの」であるところ。
この白い粉末を汚染された水（工業廃水ですらも！）に入れてゆっくり良く掻き混ぜていくと…アラ不思議！浄化剤の成分が不純物と結びついて沈殿し、上澄みにはそのまま飲めるくらいキレイな水が出来るという。沈殿物も、仮に体内に入ってもほとんど無害なんだそうです！
一袋の浄化剤で約１トンの汚れた水を浄化できます。

経営者さんは自ら開発したこの浄化剤を持って海外、それもバングラデシュとかの水事情が極度に悪い地域に乗り込み、現地の人々にきれいな飲用水を提供しようとしています。最初はボランティアとして無償で、将来的には安くともちゃんとお金を取って、ビジネスとして、浄化剤を商品として普及させようと考えている。

そこの地域では地下水にヒ素が含まれる可能性があるらしく、しかもはっきり言って日本人には泥水にしか見えない池の濁った水を住民はそのまま生活に使っているのです。当然、伝染病にかかる人も大勢います。
今回は浄化剤を使ってヒ素とかは取り除けても、即飲用レベルには出来ないほど汚れた水なので、会長たちが「砂ろ過」という伝統的な方法を併用した水浄化装置を、そこらへんの市場で買ってきたポリ容器とか安いパイプとかを使って作り、住民たち自身にその装置できれいな水を作る方法を教えていました。（あまり良い部品を使うと夜中に盗られてたりするから…）

みんなで一日かけて（でも考えようによってはわずか一日です）作ったもの凄く透明な、きれいな水が、ずっと使われていなかった錆びた水道の蛇口から流れ出てきた時の子供や大人や、とにかく住民みんなの素晴らしい笑顔。最高でしたね。私、その場に全然いないわけですけども！（苦笑）
でも、ああいう光景って、本当に最高です。

水が出た後、住民たちは「でも私たちはとても貧乏なんだ。出来ればこの薬を今後もずっとタダでくれるわけには行かないか？」と熱心に訴えました。
それに対する会長の答えは。
「君達の苦労はわかるけれども、でも君達だって、たとえどんな少しでも頑張って、安全な水を手に入れるには対価が必要なんだと思わなければいけないんじゃないか」
「村人みんなで力を合わせて、一ヶ月50円だったら払えるか？（実は原価ギリ）」
と問いかけると、村人は「それはすごく安い！私らでも払えます！」と喜ぶ。
会社として今後も確実に浄化剤を継続して納入する事を約束し、帰国しました。

会長は最後にこうも言っていました。
「（企業としてではなく）ボランティアだけでは、きっと息切れしていた」

それも一つの現実だ。
良い事をするにも、人助けをするのにも、何にでも金がかかるのが世の中だから。
そして、それは別に悪いことばかりじゃない。
タダで何もかもしてもらう、与えてもらうことに慣れすぎた人間は、かえって自立からは遠ざかってしまう。”援助慣れ”という伝染病より恐ろしい心の病を生む。

どんなに小さくても自分たちで努力する、汗をかき、対価を払う、そうして得たものは本当に自分たちの身になる。それは自信になる。

人間が生きていくために必要なもの。安全な「水」、「食料」、そして「誇り」。



■もう一方は、20年近くかけて開発した「蚊が止まるだけで死ぬスーパー蚊帳」をアフリカなど熱帯地方で広めて、恐ろしい伝染病マラリアから子供たちを守ろうと活動している大手化学メーカーの素材研究所。
この会社ではアフリカに現地法人を作り、そこで現地の人を雇用して現地工場で蚊帳を大量生産し、出来た製品をユニセフに売って（効果が認められて推奨品に認定された）、購入したユニセフがマラリアに苦しむ途上国に無償で寄付する…という形で製品を必要な全ての地域に広範に普及させようという壮大な計画なのです。

こちらのスーパー蚊帳、マジでもの凄いですよ！（奮）
蚊帳の糸一本一本に特殊なやり方で殺虫剤が染み込ませてあって、その糸をこれまた日本の高い技術で丈夫に織り上げて、たとえ蚊帳のどこかに穴とかが開いていても、蚊はその穴を探す前に蚊帳表面に足をかけた瞬間に「あ～…」って感じに落っこちて即・死亡という！実験室で１分もしないうちに蚊帳の周囲が蚊の死骸で埋め尽くされた光景は圧巻という他ありませんでした！
しかも殺虫効果は五年間も持続するという。超お得～。。

実際にそのスーパー蚊帳を数年前に全戸に配布したというタンザニアのある村を訪ねると、家々には当たり前のように青い蚊帳がベッドの上に吊られ（一部洗濯物？がのってたりもしましたが。。笑）、生活に欠かせないものになっているようでした。
マラリアの危険から解放された子供たちは身を入れて勉強することも出来るようになり、（おそらく乳児の死亡率も下がったでしょう）なんと、まわりの蚊の数そのものが激減したというのです！そりゃ触っただけで死ぬんじゃたまらんわね蚊も…☆

また、製品を現地工場で、「アフリカ人による、アフリカ人のための」蚊帳を生産することで、周辺地域の住民はそれまで一度も企業で働いたことなどなかったのが、雇用され、給与が出て、生活も教育水準も向上…という非常に良い循環が生まれているようなのです。
しかもこの事業は無償のボランティアとかではなく、ちゃんとユニセフという団体が製品を「購入する」という立派に経済活動として成り立っているところが良いです。
（実際には一個５ドルという値段は結構安いのかもしれませんが）

この現地法人を率いるたった一人の日本人という方は、かつては青年海外協力隊で活動した経歴を持ち、その後、大手化学メーカーに入社して今はアフリカで日本生まれの蚊帳を生産・普及する活動をしている。

自らもマラリアにかかって苦しんだ経験があるというその方の、
「この蚊帳であなたたちはマラリアから解放されるんです。もう安心です」
という、現地の人に向けて蚊帳の効用を説明する英語は、かなり日本人くさいカタカナ英語っぽく（…すいません。汗）はあったけれども。
でも、凄く力強かった。たぶん言葉わかんなくても、その情熱は通じてた。
特に赤ん坊を抱いた現地のお母さん達とかには。
それに、ありえないほど澄んだキレイな目をしてはしゃぎ回る、あの子供たちにも。

…もう大分以前になりますが。
船に乗って熱帯地方に向かってた時、「マラリア予防薬」という、ものっスゴイ勢いで強烈な胸焼けを誘発する地獄のような薬を２週間近く飲まされました。。
しかも、アレを飲んでいる時にちょっとでも海が荒れたりしようものなら…（酔）。
二度とアノ薬を飲んで船に乗るのだけは！そのくらいなら寄港地で現地人になる！という奴まで現れるくらい（？）とにかくヒドイ薬でしたが。

でも、結果的にあの薬は、私たちのんきな日本人に間接的にせよ「マラリアの恐怖」を教えてくれていた気がします。
それだけ多くの人を殺す危険な病気だということです。
あのメチャクチャな殺人的な副作用が看過されるくらいに！（愕然）
恐るべしラ○アム（薬の名前）…じゃなかった、マラリア。。

そして日本の外には、こんな事例が山ほどある。



あ～。
それにしても、どうして貧しい途上国の、苦しい環境に生きている子供たちは、あんなにもキレイな純粋な目をしているのだろうか？
なんか「目をキレイにする物質」でも分泌されてるんだろうか？
とか疑いつつ、しかし我々も、かつてのまだ貧しかった頃の日本には全く同じような澄んだ目をしたハナタレたちがいっぱいいたことを、土門拳の写真とかで知ってる。


あれだろうか？
人間は、豊かになっちゃダメってことですか？？

生活が豊かになる＝怠惰になる＝堕落する＝ろくでもない不平不満ばかり言い出す

…じゃあ、あの途上国の子供たちの目も、豊かさを手に入れたら、たちまちどんより濁ってしまうのだろうか？あんなにキラキラしなくなる？
塾や習い事に追われ、外で遊ばないために筋力が衰えてまっすぐ走ることも出来ず、携帯画面の見過ぎで視力は低下し、親のことも教師のことも内心では軽蔑して、仲良しグループの友人同士は疑心暗鬼になり、学ぶ喜びも、目指したい職業も何も無く、うわべだけの恋愛を必死で追いかけ、将来に希望は何一つ持てず…。
そんな絶望とシニカルに満ちた無気力な目を、あの子らも持つようになるのか？


それは嘘だろう。
そんなはずはないだろう。


だって、それじゃあんまり救いが無さ過ぎる…。


途上国や、先進国でも最下層の、スラムに暮らしている移民とかは、みんないつかは「人並みの暮らし」が出来るように、豊かになりたいと心底願っている。
世界の大部分は、いまでも本当にわずかなお金で、毎日どうにか食っている。
（あるいは食えずに死んだり、生きていても犯罪に走ったりしている）

その人達の”憧れ”なんですよ。私たち「先進国」の人間は。

なのに、その我々が「幸せ」でいられなくて一体どうするというのですか！？

内戦や疫病や栄養失調で集落の人がみんな死んでしまうこともない。
露天で、乳児の眼球をハエが這い回るような場所に暮らしてもいない。
不気味な赤茶色の膜がうっすら張ったような泥水を、そのまま飲まないでも済む。
小学校にすら行かせてもらえずに過酷な農作業に駆り出されている訳でもない。
毎日、肉でも菓子でも食べたいものだけ食べて、好きなだけ服を買い、テレビもパソコンもゲームも、全部自分一人の部屋にそろっている。

それでも、みんなが「幸せ」というには程遠い。

これは、一体どうしたことですか？
我々は何を間違えてしまったのでしょうか？
どこで、いつから「物質的に豊かになった人間は精神の飢餓に襲われるものである」
なんていう皮肉な逆説を身につけるに至ったのだろう。我々現代人は…。

本当に、そんなあり方しか存在しないのでしょうか？
そんなにも憐れな生きものなのでしょうか？人間ってヤツは…。



こんな底無しの井戸のように