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…そろそろグリーンキャンペーン?も終わりましたよね?ということで…(笑)
エコロジーの語源、なんだそうですよ。生物学の一分野としての「生態学」。
↓↓以下、ネットでちょろっと調べてみたところ。
生物は環境に影響を与え、環境は生物に影響を与える。生態学研究の主要な関心は、生物個体の分布や数に、そしてこれらがいかに環境に影響されるかにある。ここでの
「環境」とは、気候や地質など非生物的な環境と生物的環境を含んでいる。わかりやすく言い換えるならば、生物界における"歴史学"が進化論なら、"経済学"にあたるのが生態学である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「生物学における”歴史学”が進化論なら、”経済学”にあたるのが生態学」ってところが個人的に興味深いです。歴史も経済もどっちも最近興味あるもんで。
…しかしまぁ、いま現在「エコ」って言ってまさか「生態学」なんていう19世紀以来の伝統的な学問体系を思い浮かべながら使ってる人はいないよなぁ(苦笑)。
なんでコレがそうなってアレなんでしょうかね?世の中謎だらけです。。
そのへんの言葉の厳密な定義はともかく、我々が今の文脈で使ってる「エコ」というのは、さらっと要約すると「資源やエネルギーが無駄遣いじゃない」「地球環境に良さそう」というくらいの意味ですよね。
まあ遠くないだろうとは思います。間違った考えでないとも。
ただ。
私個人にとっての「エコロジー」を述べよ、と言われると、それは別に商品としてのエコバックを買って持つことや、マイはしをカバンに入れて歩くこと等を必ずしも指していない。(それが悪いとは全然言いませんよ?)
それは、恐らく語源の方のecologyに近いかも知れませんが、
「見究めようとする意志」
そのもの、と言えるのかなと。
何を見究めるのかというと、それはもう「全てを」です。
「これが、このような姿に至ったのは何故か?」「何故そうでなければならなかったのか?」という根源的で本質的な問い、を執拗に追い求めること。歴史も、経済も、文化も、教育も、家族も、個人も、思想も夢もシュミも全てがそこには含まれ得る。
「真理」を追求すること、と言ったら少し大げさになるのかなぁ…(照)。
でも、そんな感じです。
生物に例えると、「○○の生態」と言った時、それは
・どこから派生した種の
・どのくらいの個体数が
・どんな場所に暮らしていて
・どんな物質から栄養を取り
・どんな物質を体外に排出し
・どのような繁殖方法で
・どのくらいの期間生きるのか
こういったようなことを通常、調査の対象とするのだろうと思います。
とても極端で面白い例をあげると、例えば深海の火山噴出孔の周辺にはメタンガスを主たる栄養源とする世にも奇妙な生き物が生息しています。外見的にも、目はおろか内臓もあるんだか無いんだかよくわからないという珍妙さ。でも、生きてます。
その周囲を調べてみると、他にも体の表面が本物の金属(!)になっているSFの宇宙生物みたいな甲殻類的なのもいます。
こういうオカシな連中は数億年の歴史を持つ深~い洞窟の奥深くなんかでも、例えば美しい純白のレース編みのようにキラキラと連なって垂れ下がる細菌のカタマリ…のように、時々発見されています。(当人?達にとっては”発見”も何もないでしょうが。。笑)これ、きれいだからと触ったりすると分泌物の硫酸に溶かされます。
恐らく、知られていないだけでまだこの地球上には、たくさんたくさんこういう摩訶不思議な生態を持つ人類の知らない生物が存在しているのでしょう。
想像すると何だかわくわくしますね♪(え?私がヘンなんですか??汗)
…このように、「生態」というものを考えると、それはまさにその生物が長年置かれてきた環境に応じて千差万別であり、百花繚乱の進化の見本市のようなものであると言えるでしょう。
そしてそれは、とりもなおさず「地球という環境の豊穣さ」の証拠であるとも。
多様性というのは豊かさそのものですから。
では、なんでその「生態」をいろいろ考えることがお前にとって「エコ」なんだ?という話になりますが。
まぁよく考えてみて下さい。
人間も生物です。
地球上のいろいろな環境に適応して、これまで数千年も生きてきました。(原人とか入れると数百万年単位になりますが)
当然、環境はいろいろです。
豊かな土地もあれば、生物にとって厳しい土地もある。その「暮らしやすさ」に応じて、その土地が養える生き物の定数もだいたい決まってきたのです。
ところが、その世界中の異なる環境に「一律に同じ豊かさの基準」を当てはめ、同じような暮らしを持ち込もうとした。
それが19世紀の欧米で起こった産業革命以来の、人類文明のありかたです。
世界中どこに旅行してもマックとスタバとインターネット・スポットがある。
熱帯から寒冷地に移動しても、エアコンによって室内温度は常に22度前後。
乾燥地帯の広大な農地で、大量の水を必要とする小麦などの作物を作る。
牛肉を、あるいは巨大なマグロを食うために大量の燃料を費やして輸入する。
たった10分ていどしか離れていないコンビニに行くために、自動車に乗る。
東南アジアの国とかに行くとよく「病気になりそうなほど寒い(冷房が)」とか言われてますが、あれも元をただせば湿度の高い熱帯気候の中で欧米式のスーツを身につけるために、であるような気もします。
つまり「適さないスタイル」を通すから、無理が生じ、無駄が出る。
無理、無駄はエネルギーの面でも考えられます。
日本のようなほとんど資源の埋蔵量が無い国でありながら、どうして化石燃料を必要としないエネルギーシステムになかなか移行できないのか?
「大規模発電でないと効率・安定性が保証できないから」
というのは、もはや言い訳にもなりませんよね。これほど原油価格が上がってると。
似てるかどうかわかりませんが。大昔、SFなんかに出てくるコンピュータは「マザーコンピュータ」といって巨大なスーパーコンピュータ的なたった一台の超高性能なマシンが全てを管理、運用するのが理想だと考えられていた。それだけコンピュータが貴重だったのですね。
では、今はどうなっているのか?
私はそちら方面の専門家ではないのであまり突っ込んだことは語ることは出来ませんが、でもそんな私程度の人間でも、今のネット社会が「たった一台の巨大なマザーコンピュータ」に支えられているのではない、ということくらいはわかります。
聞くところによると、かのグーグルのサーバは世界中に分散していて、そのサーバ群が常に連携しあってあの超巨大なシステムを稼動しているのだそうです。
(すいません、うろ覚えなんで違ってたら誰か訂正して下さい。。)
同じようなことが、どうして電力などの分野では出来ないというのか?
ある巨大な一箇所で作られた大量の電気エネルギー、しかしそれは遠方の使用者に届くまでに膨大なロスを生み、そこに達するまでのインフラもそれこそ巨大です。
もっと使用者のすぐ近くで、自分の家の屋根で発電して自分の家族の使用分くらいはまかなえるようにする…どうしてそうならないのか?余りを売るとか?
やはりそれでは安定供給に問題がある、と電力各社は言います。
では一つの発電方法に頼り切るのではなく複数組み合わせてはどうか?とか。
さらにそれ以前に、もっと住空間自体の断熱性(新素材の断熱ガラス等)向上、家電まわりの熱効率の向上、省電力化…そういうのを推し進めたらどうなのか?
案外まかなえちゃったりするんじゃないのか?
…そうならないのは、既存の利益団体にとって得にならないから、なのでは…?
このあたりまで考えてきたところで、歴史との関わりが出て来ます。
かつて日本も、他の多くの国でも、エネルギー資源をめぐって多くの悲惨な戦争が起こりました。
大規模な戦争は、国民感情同士の憎しみが起こす、ように思われがちですが、実際には、現実的な利害関係のほうが大きいようです。
つまり、食えない、困る、となりから奪る―という太古からのパターンです。
大日本帝国は石炭・鉄鉱石などの資源を求めて中国東北部に侵攻し、またアメリカに禁輸措置を取られた重油を求めて東南アジアに侵攻した。
その結果が、あの無残極まりない敗戦でした…。
エネルギー政策は、国家の存亡を左右するほどの大問題なのです。
だから、これほどまでに紛糾し、利害が衝突しあってなかなかことが進まない。
本当の本当に重要なことは、エコバックやマイはしのレベルではない、はずです。
しかし、それを言うのは余りに途方も無く、困難なので、問題を小さくて簡単なことに入れ込んで、どうやら収まったフリ、を皆でしているだけなのでしょう。
逆に言うと、我々に出来るのはそのレベルくらいしかないとも言えるのかも。。
「真理」はどこにあるのか?を、忘れたフリをしてるような気がする。
また、昨今の「エコ・ブーム」とイコールで結ばれてる感のある「地球温暖化」という用語ですが。
これについても、まだ各分野の学者達の間では見解が分かれているところがあるのだそうです。
もっともショッキング?な説では、
「地球はそう遠くない将来に寒冷化する」
というのもあります。
こういって警鐘を鳴らしているのは、天文学者です。
彼らは常に、惑星・恒星の世界の単位、数億年のスパンで物事を見る。
その説によると、「現在の我々人類が繁栄しているのは、地球全体の活動で見たら間氷期、つまり氷河期と氷河期の間のほんのわずかな小春日和に過ぎない」もので、その間氷期としても既に地球の歴史上、異常なほどに長い期間が経過していて、いつまた氷期に移行してもおかしくないのだとか。
もしそうなった時、つまり寒冷化した場合というのは、温暖化の場合とは比べものにならないくらいの化石燃料を消費する(暖房需要ですね)が、今のペースで石油を浪費し続ければもう数十年という限度で世界中の石油は枯渇する。そうなったら、人類が地球上で生きられる範囲ははるかに狭まることになり、文明は崩壊するだろう…。
だから、今ある化石燃料を出来るだけ細々と食いつなぎながら、その間に大急ぎで全世界的に再生可能エネルギー・低炭素社会への移行を図らねばならないのだ、と。
「寒冷化」の可能性については、海洋学者の一部も言っています。例えばメキシコ湾流の変化、もしくは消滅によって将来、全ヨーロッパは”シベリア化”するとか。
※説明するともの凄く長くなるのでこれらの説の詳細はここでは省きますが。。
注意しなければいけないのは、これらの説を唱える科学者たちが「…だから温暖化なんてほっとけば良いんだよ」なんてことは微塵も言ってない、ということです。
むしろ彼らは非常に大きな危惧を抱いている。
それは、「あまりに性急に”ある現象の犯人探し”をして、まだ検証途中の結果にたいして一喜一憂しすぎること」を警戒しているのです。
温暖化=CO2、と単純に図式化し過ぎることで、ではそれを覆すような調査結果が現れた時に果たしてどうなるのか?
CO2は大して減らせていないのに、仮に寒冷化の兆候が現れてきたりしたとして、そのことが人々に「科学への決定的な不信感」を抱かせはしないか?
自分たちはそれを最も恐れている、と言っていました。
もっと冷静に視野を広く。未知のことに対して慎重に。自然に畏れを持て。
あまりにも性急に答えを求めすぎるのは、かえって危険だ、ということです。
生きものが、どんな姿をして、どんなありかたで生きているのか。
それを考えることが「生態」であるとして、では人類は今、どんな「生態」を持っていると言えるだろうか?
底無しの欲望。
途方もない無駄。
自然への横暴。
共感の欠如。
経験や、知性に対する蔑視。
異なる個性の圧殺。
未来に対する怠慢…。
我々人類が、何を「栄養」とし、何を「排出」して生きるのか。
この地球上で、どのような「生態」を持った存在として振舞おうとするのか。
これからもずっと、大量の「石油」を食って、「退廃」と「憎しみ」を排出して生きるのか?
真に問われているのは、極論すると、そういうことです。
そうした生物としての大きな大きな仕組みを変える事、それこそが本当の意味での「エコロジー」だろう、と私は考えるのです。
もちろん、目の前の小さな一歩から始めることを無意味だなどとは思いません。
しかし、常にそのずっと奥にある「本質」を見究めようとする姿勢を忘れてはいけないだろう、とも思うのです。
とりわけ、多くの人に思想なりイメージなりを伝播する使命を負うべき表現者は。
何故ならイメージとは、数々の歴史が証明しているように、時として暴力的なまでに強い力を持つ諸刃の「武器」でもあるのだから。
「エコロジー」という言葉。
使うのなら、皆様にもそんな緊張感を持って使って頂きたいと思います。
…とまあ、こんな空気読まないヤツだから友達少ないんだよ。。(爆)
2008/06/20
2:29
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