
関東も梅雨入りしたらしいですね。
と、いうことで雨ふりの時期にお似合いなイラストです。
レディは雨の日でもきっちりオサレを楽しむのです♪
(なんつって単なる去年の6月の季節ネタ・コスプレイラストですが。笑)
ふー。。
なんちゃってね、お仕事のイラストでは過剰なまでに派手だったりお色気だったりオシャレだったりな人物ばかりを描いている私ですが。
描いてる当人は、ほとんどといっていいくらい「黒」ばっか着てます。。。
または無彩色。(グレーとか濃紺とかブラウンとか?)
柄モノは苦手。(合わせられないから)
ジーパン標準。(足が寒いから)
おまけにハイネック。(…)
一年中いつも革靴。(サンダルじゃないよ)
無いですね…色気。。ハイ、相すいませんです…(落)。
つい最近、ちょっとだけ知り合い?の作家さんの原画展&サイン会をのぞかせていただく機会がありまして。
冷たい雨の中はるばる電車乗り継いで行ったんですが、熱心なファンの方が大勢サインを待って行列していたので、結局私は一言も話せずに会場を出てしまいました。
でも、サイン会を横目に初めて間近で見させていただいたその方のイラストの原画は本当に美しく、線は流れるようで、色彩は目の覚めるようで、文学少女の夢や憧れをそのまま結晶化したような妖しい輝きに満ち満ちていました。
さらに言うと、作家さんご本人も粋に和服を着こなしていらして、ファンと丁寧な物腰でお話したり、サインしたりする姿も実に堂々としたもので…何でかその光景に私は激しく打ちのめされてしまったのでした。
あぁ、この人も「自分の見せ方」ってものを凄く良くわかってるな、と思ったので。
実はほぼ同じことを、ほとんど同じ時期に、自分よりもっとずっと年も若いクリエイターさん相手に気づかされた経験があったので、それが余計に強くて。
…ちょっと私が変な話をしているようにお感じになりますか?
「(作品以前の)自分をどう見せるか」というのは、クリエイティブの基本であって、何を今更?という。
ここに登録するほどの皆さんにとっては、そうなのかもですね。。
しかし、私一人にとっては、これほど「重い」、難しい課題も無いのです…。
何故といって私はもうず~っと長いこと、自分の「かたち」が大嫌いだったので。
小さい頃から美しいものはとても好きでした。
だからこそ、でしょうか。自分の思う「美しさ」とは程遠い、この現実世界の生身の自分の容姿が、体型から、それこそ部品の一つ一つから、声やしゃべり方に至るまで、全て「気に入らない」、「一片の価値もない」と思い続けて来たのです。
はっきり言って、興味が無かった。
第一、私は美しいものが好きなのに、自分自身をいくら着飾ったところで、それは自分からは「見えない」じゃないですか?
そしてまた、多少頑張ってオシャレして、鏡を見たところで、そこにあるのは何とも「変なもの」で…(苦笑)。こんなものきっと誰も見たがらないんだし、いくら努力しても無意味である。
せいぜい場からはた迷惑に浮かない程度に注意が払ってあればそれで良かろう。
世間の流行のきれっぱしさえ押さえておけば。不快を与えさえしなければ。
そんな風にしか思えませんでした。
現実問題としてオシャレに使う金も余裕も無かったし。。
まあでも、こんな私でも学生時代から一時期、ちょっとは頑張ってみた時もあったんですけどね(若気の至り?笑)、結局あまり長続きせずに戻ってしまいましたね。
本当に、興味が持てないんですよ。「自分の洋服を買うこと」とかに…(苦)。
オシャレなひとってのは金が無ければ無いなりにもの凄い努力を払って、アイデアを使ってきちんとオシャレをしますしね。古着を上手に組み合わせたりとか。
自分にはそういう執念は、ほとんど先天的といって良いくらいに欠けてました。
これは、一種の新しいビョーキかも知れませんね…?
どなたか生物学者の方で解明していただけたら面白かろうと思います。。
しかし、こんな「色気もヘチマもない」私ですが、イラストは可愛い女の子とか、素敵なお姉さまとか、結構得意?だったりします…(御注文されるわけですし)。
人生で全く接点を持ちようも無いみたいな「美青年」とかも、時々描きます(笑)。
これは一体何なのか?
人は、自分の中に無いものは表現できないはずなのですが。
ある種の代償行為?または、本人も気づいていない願望、欲求の類でしょうか?
自分が「100回生まれ変わってもこんな風には生きられない」と感じているような、きらびやかな人種に絵の世界ではなれるような気がしている?
…ううむ、全部なんかちょっと違うような気もしますが…(考)。
それでも自分の中に何かしらの必然性があるからこそ、こういう話なりイラストなりが出てくるし、描けるわけで。こんなに乙女じゃない人間なのに。。(どころか、ずっと”男の子”になりたかったのですよ私は!?汗)
このへんは自分でもいくら考えてもサッパリわからない部分がありますね…。
それはそうと、私は「自分の作品」は人に「たくさん見られたい」と思っている。
絵や漫画であるかもしれないし、文章も少しはそうかも知れない。
クリエイティブの世界で有名になりたい、という思いも無いとは言わない。
お金が欲しい、といつもいつも言っているけど、本当はそんなことより、たくさんの人に見て、認めてほしいのだと思う。作っている自分という存在を。
でも、そこには生身の自分が存在していない。
この自分という「かたち」が、人から注目されるということは、全く考えたことも無かったし、今でも恐らくそうなのだろう。
私の作品や、書いたブログの文が人から知られることと、この自分とは、何の関係もない、自分は空気のように作品の置いてある空間をただよって、それを見ている人の背後にでもふらっと立てるような気がしている。(もちろん相手は気づかない)
誰も、私のことなんかチリほども興味は無いはずだからだ。
つい最近、年下のクリエイターさん達によって私が思い知らされたこととは、
「…だから自分はまだまだ”無名”なんだ」
ということでしたね。。
あの人らは、自分がファンからどう見えているか、ちゃーんと知っている。
「こうあって欲しい」というそれらの人々の願望を、受けて立っている、と言っても良いかも知れない。(たとえそれが自分の本当の姿とは違っても)
自分自身の傷や、秘めた欲望や、暗い情念、そんなものまでをさらけ出して、しかも計算ずくで「魅せて」いる。
雨の日でも、暑いイベント会場の中でも、あでやかな着物に身を包んで、きちんと髪を整えて、10分も20分も30分も熱心にファンの言葉に相槌を打つ。
買う人が「欲しい」と思うような作品を描く。そして、それを売る。
自分の存在全てが「作品」であり、覚めた頭でそれを「商品」に出来る。
本当に見事だなぁ…、と思いました。
と同時に、いまの自分に最も欠けている要素があるとすればこれだな、とも。
要するにまだ私には確固たるビジョンが、
「作家としてこう見られたい」
という、いわば設計図が、無い。
無記名のイラストという、いつも他人の創作の影に隠れて、責任の無いところで好き勝手にやっていたとしても、それは本当の意味でリスクを取っているとは言えない。
だから、いくらでも作風を変えられるし、そのことに抵抗も無いのだろう。
まだまだ、私は「一人で立っていない」のです。
もっと人に作品を見て欲しい、有名になりたい、と思いながら、全く同時に私は
―誰にも見られたくない―。
そう思い続けて、そのように行動してしまっていたのだと気づかされたのです。
実におかしな矛盾した話ですが。でも、そうだったのです。
しかし、気づいたからといってそう簡単に変われるとは限りませんけどね…(笑)。
こんなにも長い間に染み付いてしまった習性というものは。
でも、現実に私が「自分の中にあるものを”誰か”に届けたい」と強く思っていて、それを消しがたく持ち続けながら、この仕事をやって行こうとするのならば。
どこかの時点で、乗り越えなければならない課題ではあるのでしょう。
「(作り手として)自分が、こう見られるべきである」
という存在に、リアルになって行こうとする努力は、やはり必要なのでしょうね。
どんな「かたち」であるかは、まだ全く手探り以前の状態なのですが…。
(とりあえず着物はまだ着れないような気がします。。爆)
でも、それをしなければ私の声が届くべき相手に届かないのだったら。
やるしかないんだろう。きっと。
少しずつでも。どんなに不恰好で、不器用でも。
何もかも「諦めるわけには行かない」と、あの日、そう決めたのだから。