
すいません。画像、相変わらずタイトルとあんま関係無いッス(笑)。
ちょっと6月にお台場の科学未来館でやる翼竜展に関連してお仕事で描きました。
(今は名古屋でやってるらしいね☆おススメです!)
↓
http://www.itmedia.co.jp/anchordesk/articles/0805/12/news063.html
さて頭を切り替え、タイトルにある通り大災害とその後、について考えています。
今、ニュースでは連日お隣の国の大地震の模様が大きく取り上げられていますよね。
本当に亡くなられた方や大事な人を亡くされた方、被災された皆さんには痛ましい限りで言葉もありません。
特に小さい子どもの映像が出る度に胸がえぐられるようで。皮膚の柔らかそうな子どもの傷ついた顔は、何より見るのがつらい眺めですね…。
昨日、日本の救助部隊が外国勢としては初めて北京に到着したそうですが、何とか一人でも多くの人の命が助かれば…と遠くからお祈りしています。
合わせてこの機会に地震大国日本の進んだ災害救助技術を他のアジア諸国にも広めていただき、同時に我々もこの未曾有の大惨事から多くのことを学ぶべきでしょう。
…実際、日本自身の多くの建築が耐震基準クリアしてるか怪しいらしいしね。。
大きな自然災害があった時、私自身がそうなのですが、クリエイターを自称してものを創っている人間として「何もできない…」という無力感に苛まれることがしばしばあります。
現に、テレビや報道写真の中で傷つき、血を流して助けを求めている人々を前に、具体的に”役に立つ”ことが出来る技能を持っている人間というのは、非常に限られていると思います。
消防や軍、医師や看護士の資格を持っている人であるとか、行政関係者、あと流通業に携わる人なんかも最近では入りますね。家屋の危険度を診断する人。もっと広い範囲では、有志のボランティアなんかもそうです。膨大な瓦礫を一つ一つ撤去したり、トイレを作ったり、お年寄りに手を貸すだけでも大いに役に立てる。
しかし、そういう災害直後の現場でアートや表現が必要とされることはまず無い。
目の前の物理的な破壊の状況を前に、精神に発する表現は無力であるとすら言える。
この思いは、かつて私がまだ学生だった頃テレビで目にした阪神大震災の時に、強く思い知らされたことでした。
同じ国内の出来事とは思えない、テレビの中でライブ映像でいままさに炎上している街を目の前に、自分には何も出来ない。
美大の芸術学科に在籍して、高い学費を払って、毎日朝早くから遠く通勤電車に揺られて来て、いま勉強していることは、現実に誰かを救う事が出来るのだろうか?
誰一人も救う事が出来ない学問を、何の為に自分は学んでいるのか…?
何の意味もないのでは…?
同じような無力感から逃れるためにか、実際に阪神にボランティア活動をするためにかなり早い段階で関東から出かけていった知人もいます。私も行きたいとは思いましたが、結局、色々な事情と自分自身の勇気の無さから実行できませんでした。
その行けなかったことがずっとトゲのように残っていた頃もありました。
しかし、別の機会に私自身もあるボランティア活動に参加してみて、さらに被災地のその後の色々な話を見聞きする間に、少し考えが変わった面もあります。
それは、一見すると、壊れたのは建物や道路、家などの「目に見えるもの」だけで、それらが全て元通りに作り直されれば”復興”は成されたかのように思えるけれども、現実には全くそうではない、という事実です。
安全なはずの仮設住宅に移ってからのお年寄りの孤独死の多さ。
被災したことから来る経済状態の悪化、それが引き起こす家族の離散。
個人商店や町工場は再建できず、空き地になることで地域共同体が崩壊する。
家族や親しい友の死を体験し、ケアされなかった幼い子供の心に長く残る喪失感。
他にも、直接の被害は受けなくても、この国の多くの人がまるで「世界の終わり」のような光景を目の当たりにし、それに深く心が傷つけられたと思います。
それらを一言で表す言葉があるとすれば、「虚無感」です。
真っ暗な穴のような、底無しに深く、恐ろしい”何か”。
平和な街の書割りの一枚裏には、冷たい無限の宇宙空間しかないという感覚。
いま目に見えているこの世界が実は何らの確実性も無い、命には意味も必然も無い、飴細工のように脆く壊れ易い世界の崩壊を止めてくれるものは何も無く、暗がりに真逆さまに落ち込んでいく剥き出しの自分の魂を救ってくれる誰か一人もいない…。
そんな身悶えするような絶望感と、孤独感。
以前、何で読んだか忘れてしまったのですが、かつて日本中を震撼させたある殺人事件の容疑者の当時14歳の少年が「阪神大震災の光景がずっと頭に焼き付いている」といったような話をしていた、という文章がありました。
その言葉が本当はどんなことを意味していたのか、断片的な情報からはあまり読み取ることはできませんが、どこかで私は、この少年も現実に被災した人々と同じような虚無を抱えてしまっていたのではないかな?と考えていました。
だから、人を殺しても許されるなんてことは断じて全く無いのですが。。
…でも、もし「この世界は壊れるものだ」とか「命はとても簡単に消えて無くなるものだ」という感覚に捕らわれてしまったとしたら、そういう人間をケアできる場所って現実にどこかにあったのかな?と思って。
今の我々の周りにもそういう場所ってあるでしょうか?
「そんなこと考えるやつはクズだ、あっち行け」で終わり、なんじゃないかな?
もしもそういう場所があったら、あるいは、その少年が犯罪の側まで行ってしまう前に引き止めることも出来たのでは…?あるいは今、まるで流行のようになっている多くの自死を、少しは減らすことも出来るかもしれない…?
なんてことを考えてしまいます。
(残念ながら、その場所になれることが期待されていたネットには、今はまるで逆の言説が溢れているようで、それもひどく悲しいですね。。)
つまり私が考えているのはこういうことです。
災害発生直後は、目の前の大きな被害から一人でも多くの人命を救い、病気や混乱の発生を防ぐべき時期である。そのために社会の全ての力を注がなくてはならない。
しかし、それがほぼ終わる(どのくらいの時間がかかるか見当もつかないけれども)その時は、次の段階、すなわち「大災害が破壊した目に見えるもの以外の被害=人の心の問題」に目を向けなければならないでしょう。
その人の心を復興する過程は、恐らく都市そのものを復興する作業よりも何倍も何十倍も長い時間がかかり、その及ぶ範囲もはるかに遠く広いと思われます。
阪神大震災で人々が負った心の傷は、ずいぶん経った今でも完全には癒えていないのだろうし。
まして今回の大地震は、その阪神よりも規模・失われた人命においてもはるかに被害大きいということですから…。残した傷の深さも尋常ではないはずです。
そしてここからの段階にこそ、アートや表現はその真価を発揮しなければならないだろうと思うのです。
ビルや道路や家を建て直すことは、私たちには出来ない。それは、建築家や設計者や施工業者の仕事である。
傷ついた人々の体を治すことも、医師や看護士の仕事であって、クリエイターの出る幕ではない。
経済を立て直すのも、少しはお役に立てるかもしれないけどでもやっぱり表現は主役ではない。そこには別のプレイヤー達がいるべきで。
でも、本当に何十年、あるいは百年という物差しで考えた時、
「人間の壊れかけた”心”を治す」
ことができるのは、やっぱり表現者しかいないと信じています。
クリエイターと言っても良いし、アーティストと言っても良い。
作家かも知れない、監督かも知れない。
イラストレーターでも、絵本作家でも、造形作家でも、写真家でも良いと思う。
とにかく、その人は深い孤独と虚無を自分の内にも持っていて、それを知った上で、未来に向かって何ものかを創りだそうとしている人で。
いつか自分にもそれが出来ると信じている人で…。
絶望しながらも、希望を他人に伝えよう、届けようとしているはずで。
人間の心を底無しの闇から救い出すために。
崩壊して行く世界を繋ぎとめるために。
だから、やっぱり同じく「世界を救っている」のだと思うんですよ。もの創りを仕事にしている人達も。ハイパーレスキューなんですよ☆
…なんちゃって、ちょっと格好良く言いすぎですかね…?(汗)
最後に、世界の遠い被災地の方々へ心からお見舞いを申し上げます。
一日も早く、一人でも多くの方が静かな生活と、心の平安を取り戻せますように…。