
なんちゅうひさびさの新作イラスト(笑)。
いや~何かね、使えばいいんですけどね普通に…仕事はちゃんとしてて作品もその都度増えてく訳なんだから。
しかし何故か「あんまり画像入れすぎると割り当てられてるストレージがいっぱいになるのでは?」などという半分都市伝説(爆)みたいな恐怖にかられており…無いですよね~んな事わ。。。(阿呆)
私の場合、やってる仕事がほとんど全部連載ものなので、ほっとくと量はどんどん増えていってしまうので、それを全部いちいち言及するのも何かなぁ…とか思ってしまうのですね。。(ファイル名とか余裕で050とか行くしな。苦笑)
まあ、そんなのもオリジナルがさっぱり増えてないことの言い訳に過ぎませんが☆
ほんとに我ながら〆切がないと筆が遅くて…(落)。
このところまた急に、ロフトワークに来ると「あぁ~みんなメッチャ頑張ってるじゃん。自分なんてダメなやつなんだ~」病が進行し始めまして(汗)。
ほんと、ピックアップとかだけ見ても、皆さんの力作には刺激イッパイ受けます!
刺激の海にアップアップ溺れちゃう感じです!!(苦)
そして同時に、痛切に思うことがあります。
自分はやっぱり、絵の才能はあんまり無いんだなぁ…
ということです。残念なことですが。。
これは学生だった頃にもずっと思っていたことなので、今更さして目新しい感慨でもなく、落ち込むとかいう類のものでもないのでご心配は要りません。(してねえよ)
むしろとても冷静に今はこういうことを考えられる。
「絵だけ、では大したことは出来ない」と。
逆に言えば、それとは違うことが出来るはずと自分についておぼろげにでも考えているわけで、そのへんが学生時代に比べて進歩したということかもしれないし、或いは単に年を取ってきて何事かを諦めたと言えるのかも。。
とにかく私は、絵、だけで勝負出来る人ではないようです。
こういう所(LW)にイラストレーター名乗って登録しといて何ですが…(笑)。
いえ、お仕事はモチロン大歓迎でお待ちしておりますけども!(呆)
そんなことを思いつつ、最近よく考えることがあります。
「自分の信じていること」
というような内容のことを少し前のブログに書いていたもので、それについて。
作ること、絵を描くこと、何かを表現すること、仕事としても個人的な欲求としてでも…そこに自分は何か基準なり目的なりを持っているだろうか?
あるとしたらそれはどんなことか?
何で急にこんなことを考えるのか、と言われると自分でもよくわからないんですが、どこかに「急がなきゃ」という思いは常にあるような気がしますね。
言える間に言っておかないと、もう永遠に届かなくなってしまうような…。
今も書いてるんですが、ブログも、ネットも、本当に便利な素晴らしいもので、これが無い世界にはもう戻れないんじゃないか?と思いつつ、でも私にはどっかでこの環境がとても脆く失われやすいものであるようにも感じているのです。
極端な話、「電気」が完全に無くなったらネットは終わる訳でしょう?
送電網の寸断かもしれないし発電施設が壊れるかも知れない。今回の中国の地震とかでは逆に政府系の情報をネットによる個人情報が補っている側面があるらしいですが、それも別の都市なり海外のサーバとかが生きているから可能なのであって。
本当に、全てが同時に失われるという事態が絶対に無いと言い切れるのか?
人類文明が電力を生み出せなくなる日などは来ないと、誰が断言出来るのか?
電気がなくなっても即座に人類滅亡、とはならないでしょうが、今の文明を覆いつくしている広大なネットワークは失われる。もちろんあまたの個人ブログも。
その時、ネット上に溢れた情報は、遠い古代に失われた文字を持たない文明の叡智のように、この世から綺麗に消えて無くなる。誰もその存在を知る者がいなくなる。
別にそうなってもいい。
人間は「進化」だけをすると決まった生物などではないし、それどころか、色々な時代、様々な文明において数限りなく悲惨な「退化」の姿も見せてきた。
この文明も、そろそろ終焉に向かい始めているかも知れない。
でも、きっと人間はまだまだ生きていく。
どんなに世界が混乱しても、飢餓や戦争や災害や疫病や…あらゆる困難に見舞われ、どれだけの不幸に満たされても。
生まれた以上は、生きていくしかないのだ。それが生物だから。
そして、生きていくからには人間は「幸せ」になろうとする。
どんなにほんの少しずつでも。
外国より、自分の国。
親の世代より、子の世代。
となりのあの人より、自分。
昨日より今日、今日よりも明日。
時に何かを妄信し、他人を傷つけ、自らの命を縮めても「幸せ」であろうと欲する。
それが本当はどんなものなのかを立ち止まって考えてみることはせずに。
それは「物質」だった時もあったかも知れないし、形を持たない「感情(愛とかの)」を指していた時もあったかも知れない。「金」だって本当は形のない価値だ。
でも、それらのどれもが「手にしかけたと思った瞬間、すり抜けてしまう」ということに変わりはなかったようで。
色んなやり方で人は「幸せ」を求めてきたけど、それを本当に手にしたと言える人は恐らくそう多くはないんじゃなかろうか?
私が唯一、信じている考えがあるとすれば。
それは「求めようとする過程の中にしか存在し得ないもの」だ、ということ。
例えば「学ぶ」ということは、何かを知ろうとしている過程(つまりその時点では自分が学んでいるのが何なのかまったく知らない)そのものであって。
「旅」が目的地にたどりつくまでの道程全ての中にその本質があるように。
「愛」はその人を愛したいと感じているその一瞬の心の動きの中にあるもので。
だから「幸せ」も、「あぁ。この家族を自分はうんと幸せにしてやりたいなぁ」とか思うその気持ちの中に既にあるんだってこと。そこにしかないとも言える。
そういうことを、この自分が生きている限り、誰かに伝えて行くこと。
人間の人生は長いようで実は意外と短く、一人の人間が学び取った事は大抵の場合、死によってそのほとんどが忘れ去られてしまう。
故人の背広や、靴や、愛用の傘なんかにその人の在りし日の姿を重ねられるのは、その人と直接交流があった関係者だけだ。
でも、言葉や作品は違う。
それは時代や、時には言語も国籍も超えて、別の誰かにその人の思想を伝える。
怒りや喜び、どんな熱い感情を持ってその人がその言葉=思想を残したのか。イメージを残したのか。何を求めてそうしたのか。
会ったこともない赤の他人なのにどうしてこうも共感できるのか。
「ここに自分がいる」と思えるほどに。
こんなにも勇気や、やすらぎをもらえる気がするのは何故なのか。
どうしてこの人は自分に代わって”これ”を言ってくれようとしたのか。
そうすることで、何を、自分に伝えようとしたのか…。
私の仕事は、色んな世界の色んなレベルでですが、他人の考えたことを出来る限り正しく読み取って、その上で自分というフィルターを通して、それに何らかのイメージを与えること、だと思ってます。(仮に仕事を離れても、そうです)
少しでも多くの人にその有益な情報が正しく伝わるように。
ある意味、「目印」になることだと思っています。
だから今は、情報を読み間違ったり、不正確になったり、地味すぎて気づかれない「目印」になったりはしないよう精一杯に頑張っているつもりです。
ある人にとって本当に必要な知識を身につけること、新しい世界が広がることで、誰かの人生がもっともっと豊かになれるはずだ。
そうやって人生が豊かになれる人が一人でも多くなれば、それだけ世界も豊かになれるはずだと、そう私が信じているからです。
活力や思いやりというのは間違いなく伝染性のあるものだそうですから…(微笑)。
結局、私が信じていることは、
「人間は幸せに生きることを目指すべきなんだ」
ということで。
それは誰かを収奪するとか、何かを犠牲にするとかの上に作られるものではなく(だってその状態は別の人にとっては幸福とは呼べないから)、つまるところ、永遠に達成されないただの理想に過ぎないのだけれども。
求め続けることに意味があるのも、理想というものではあるので。。
それが、人間活動の一方の本質とも言えるのだし。(他方は諦め、かな?)
こんなようなことを、考えていたりします。
そしていずれはもっと広く、こんなことをイラストであれ、物語であれ、誰かに伝えていけたらいいな、と思います。
いつまでかはわからない、この自分と、この世界が存在している時間のあいだに。
…やっぱり、もっと急いで成長しないとダメですかね(笑)。