
はい。少し前ですが、こういう記事をニュースで見かけました。
割と色んな媒体に出ていたようですね。
「若者の海外旅行離れ深刻」
↓
http://www.j-cast.com/2008/04/30019659.html
ひと頃ほど、若い人が海外含め旅行に行かないし、そもそもその行為にさほど魅力も感じなくなっているらしい。
まぁ一番ふつうに思いつく理由としては、お金ないんですよね。。(落)
自分も十分思い当たるふしありますから…。
この記事は目下の旅行業界の危機感を伝えているだけなのですが。
でも、私はこのニュースにはもっと底深い、ある種の不気味さ、を感じています。
だっていくらお金や時間がないからといって、30%もの激減て…?
これは、対象となる年齢層の人々の精神世界に作為的にか無作為にか、大幅な変更が加えられつつある、と考えるしかない。
つまり急速に我々が「内向き」になっているということなのでは?
旅行とほぼ同義である言葉に「観光」というのがあります。
これは明治時代あたりには「(自分たちのアジアよりも)進んだ西洋文明を実際にみたり聞いたりして、そこから学ぶこと」という意味を持っていました。
もっとも今は、単なるオバちゃんの物見遊山の意味でしか使いませんけどね(笑)。
まだ国家のかたちが定まっていなかった時期、法制度や軍事、重工業や建設や商業の仕組みなどを学ぶために、多くの国家によって選ばれた若者が海を渡って外国に留学し、専門分野を死に物狂いで学びました。そうやって今の日本の礎を作ったのです。
時代が大分下って戦後、海外旅行がようやく個人にも自由に出来るようになると爆発的な海外渡航ブームが起きました。
みんな戦時中・戦後の混乱期と閉鎖され極端に貧乏だった国内しか知らなくて、外の世界に飢えていたのでしょうね。特に若者が、なけなしのお金とボロいリュックサック、あとは勇気と、あふれんばかりの好奇心だけを持って海外に飛び出しました。
この時代に、後に世界的に有名になる建築家の安藤忠雄や、登山家の植村直己などが日本を旅立ちました。みんな旅行費用などまともにない庶民ですから、学業の合間に土方のアルバイトをしたり、移動手段も貨物船のすみっこに載せてもらったり、自分で筏を組んだり(!?)、行く先々でバイトをしては食いつなぎながら長い長い時間をかけて色んな国を回ったそうです。(詳しくはそれぞれの方の本が出てますので御参照下さい。植村氏の「青春を山に賭けて」とかマジでとっても面白いです!)
さらに時代が下って、今はどうでしょう?
HISが出来た頃から本当に海外旅行も安く気軽に行けるようになって、良い時代が来たと思ったものですが。
実際には、あまりにもお手軽に行けるようになってしまった結果―そう、例えば「京都に行くのと韓国に行くの、大して変わんないよね~」という言葉に象徴されるように、国の外に出るということのハードルがほとんど感じられなくなり、結果的に全てが並列に扱われるようになって、その輝きのようなものが失われてしまった。
「同じ値段で、同じようなサービスが欲しければ別に海外でなくっても」「ていうか、楽しければ別に旅行でなくっても」「行くのめんどくさいから都内の高級ホテルで休日エステでいいや」「そのお金携帯の料金に回そう」みたいな?
…別にこれが良くないことだとか、もっと海外行こうよとかは言いません。
最近の旅のスタイルを見たりしても、これは某格安旅行ツアー会社の人が言ってたのですが、「最近の若者はあまり自分でプランを考えたりするよりは、全部はじめから用意されているようなのを選ぶ傾向にある」そうで、あまり面白くなさそうですし。
うん。面白くないんじゃないかと思うんですよ。要するに。
みんなで同じようなところに行って、みんなと同じような感想だけ言って、会社や学校の予定通りにあわただしく帰ってくる、ていうことが。
そうやって旅行して、どれだけ本当にその土地を見た、知ったと言えるのか?
言える道理がないんですよ。たかが旅行客ごときが。そのことを忘れているというか、「ああ自分はこの土地のことも、人々のことも何にも知らない、知りたいな!」と思うことが、本当の旅することの意味だと思うんですよ。
「自分の世界が広がる」ってことだと思うのです。
自分が旅した場所、自分が踏んだその土が、他の何処とも同じものではない、そこだけの唯一無二の”奇跡”であって、その土地に暮らす人々は、この自分が去った後にもずっと何十年も生き続けていて…それはどんな国であれ数千年単位の時間のうねりの中のほんの一瞬の出来事で…。そのことに畏れと感謝と敬意を払うべきであるということ、自分がつかの間に顔を合わせた名も知らぬ人々の幸福を、はるか遠くから永遠に祈り続けられるような親しい気持ちになれること。
その国の名前を聞いただけで、ある都市の名前を聞いただけで、食べ物や、香料や、人々の肌のにおいや、風の音がよみがえってくるような…。
「故郷」という言葉の本当の意味が、腹の底からわかるような、そういう体験。
そういう経験をこそ、旅と呼ぶべきだし、そういう旅をこそするべきだと思う。
有り余る金にまかせて何十カ国の名所旧跡を飛び回ったか、じゃないのです。
何故って、他人の「故郷」を思いやれない人間に、真の交流などはあり得ないから。
そして、「文化」って実は、その「全ての人にとってのかけがえのない故郷」のことなのではないでしょうか?
だから、本当に無くなると生きていけないものなのでは?
そのことを知るのが、旅というものの本質的な意義であると私は考えます。
パリやニューヨークのような国際的な大都市でアートが大いに発展するのは、多くの国から集まった「自分の故郷」を持った個性的な作家たちが火花を散らすから、だろうとも思えます。やっぱり、バックボーンのしっかりしていない人は海外では圧倒的多数の中に埋もれてしまうということですし。…だからって無理に日本風の絵を描けば良いんじゃないですよ?(笑)
安藤忠雄の建築なんて見た目はコンクリート打ちっぱなしでどっこも日本の伝統建築っぽくはないですが、しかし、あれは確かに日本人の魂が作らせたものだと言われている。そう思わせる何かがある。
それが、その人の背負った文化の力なのです。
「西洋建築に憧れて世界を放浪した若者時代という背景を持つ日本人」の作品。
今の若い人が旅することに興味を持たなくなっている、というのは、きっと「面倒くさい」のだろうと思います。お金がない、という以上に。
外に出て、自分と180度異なる価値観に触れたり、その中で揉まれたりするのが。
でも、ずっとそれで本当に良いのでしょうか?
物足りなくはないでしょうか?
「ここに実際に身を置いたら、自分は一体どんな風に変わっちゃうんだろう!?」と妄想して、もの凄くワクワクする―そういうのも、結構悪くはないですよ☆
各人に色んな事情があるだろうし、現実に行けなかったとしても構わないんです。
その一人で妄想してワクワクしたってことがとても大事なんだと思うのです。
だってイメージの中では、もう貴方は立派に旅をしてきたのだから。
そうやって旅を(心の中でも)して来た後は、必ず、いつもの変わり映えのない近所の風景が違ったものに見えるはずです。家族や友人と会っても、どっか違う筈です。
「あ、今こうしてコイツらと話してるのって、けっこう貴重なことかも?」とかって気がついたりします。だって、イメージの中で飛行機や船や長距離バスが事故ったりテロに巻き込まれたりしたら帰ってこられなくなりますからね。。
イメージの中で行こうとした土地の気候風土、食べ物、色々と研究したりするうちに「もっと体きたえないとな」とか思ってランニングなんか始めるかもしれません。
そんなこんなしているうちに、気づいたら自分が随分以前より変わっているかも?
重要なことは「歩くのをやめたら永久にそこから動けないけど、どんなに小さな一歩ずつでも足を動かしてさえいればいつかかならずどっかには着く」っててことです。
若いうちから何もかも悟ったような顔して素通りするのは、単なる「諦め」です。
どうか若い皆さん、自分から諦めたりしないで外の世界に挑み続けて下さい。
孤独にもがいて、じっくり時間をかけて、いろんな壁にぶつかってみて下さい。
立ちはだかるものがあれば、その時こそ過去の先人達から多くを学ぶチャンスです。
その先にはきっと、知らなかった素敵なものが沢山ありますから。