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    <title>loftwork.com - DaisukeTokitaのブログ</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/</link>
    <description>このRSSデータは、最近の更新コンテンツです。</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-10-12T15:14:23+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/32946/">
    <title>瞬間的な写真に時間を焚きこんだ写真展示。</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/32946/</link>
    <description>お茶の水にある、東京医科歯科大学の写真部をしております時田と申します。 
すこし宣伝をば。 

１８日１９日にあります文化祭において、写真部の写真展を行います。 
写真展の詳細は、以下のwebサイトに載せてあります。 
http://tmduphoto.web.fc2.com/ochasai08.htm 
１０月１８日、１９日の午前１０時から１７時までを予定しております。 
場所は２号館(技工士学校)の第２講義室を予定してます。 

ご多忙かと思いますが、お時間あればぜひいらしていただけたら 
写真部一同幸いです。 

お茶祭公式web:http://www.ochasai.net/ 
写真部公式web:http://tmduphoto.web.fc2.com/ 
部長：時田大輔(D3)




</description>
    <dc:subject>イベント・個展・展覧会</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-10-12T15:14:23+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/32140/">
    <title>写真に対する定義</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/32140/</link>
    <description>私は写真を手段と定義したい。絵画などと違って、写真は集合写真などの記録目的、スナップ、デジカメや携帯写真などの、日常の用途としても使われる。これらは写真の持っている記録保存という特性を手段として用いたものだ。また、多くの雑誌や広告に見られる商業写真は、現実を異化させるという、自動化からの枠付けをする特性を手段として用いたものだ。そして異化の際に必要なことが写真技術である。つまり撮影者の意思の方向（ベクトルの方向）により使い方が異なる。 私は、精神内面への装飾に写真を用いたいのである。 時間軸は、有名なところだと、生物的（いわゆる人間時計）時間軸と、物理的（時計が刻む）時間軸がある。いまは簡単のために、物理的（均質な、モデル化しやすい）時間軸を用いて考える。 写真を撮るとき、それは１０００分の１秒だったり、９０分の１秒という、ごく微少な時間を物理的時間軸（x）上では示す。この時間軸を用いて、垂直に軸を置き平面を作る。その垂直軸（y）はなんでもいい。やさしさやかなしさなど、とてもことばに収まらなかったり、固まりきらない、うやむやな、わかりやすくいえば、感情の変化を表すメモリだと思ってもらえばいい。すると時間が変化するにつれて、感情は変化（xが動くにつれてyも変化）していき、一種の関数となる。 このとき写真は、時間軸上の微小時間（すなわちシャッターを切る）において切り取る、すなわち感情の微分（dy/dxに相当）という特性を発揮する。（逆に積分は映像である。映画が内容によってジャンルわけされるのは、多くの観客が映像を見て、内容によって似た感情変化を起こすことにある） 微分（＝傾き）の違いは右に示す。２枚の写真を同じ場所で撮ったのだが、感覚としては丸と四角を覚えないだろうか。また微分機能は、この微小時間付近の感情変化を想像させることがある。（ちなみに、人が死ぬ瞬間などの感情不連続点は微分不可能ゆえに撮影不可能、、、、なのかも） 実際は人間であるから、メトロノーム（物理的）に合わせて必死にピアノを合わせる（生物学的）子供のように、こんな単純化はできないが、イメージ化の点で有用ではなかろうか。 この特性を使い、撮影者の意識ベクトルを内向的自己の状態で理想化したものを形象化すれば良いのだ。 では撮影者の意識ベクトルの内向化を具体化しておく。写真に見られる２通りの方向性がある。それも内向性と外向性だ。どちらとも取れる写真もあることも記しておく。もっと具体化して、あるモデルを撮るときに、その撮影者は２タイプいる。モデルに指示をする人とモデルに自由にしてもらう人と。前者は表現したいものがすべて自己のうちにある、すなわち撮影者の意図の染み入った写真を撮り（内向性）、後者はモデルの魅力を引き出す、撮影者の意図の入らない（ある意味自由な）写真、言い換えれば、限りなく外向きの意識を、自己意識の薄くなるまで引き延ばしたあたり（外向ベクトルの限界付近）で写真を撮る（外向性）。上に挙げた商業写真や記録写真（ちなみに鉄道写真もね）は、この基準でいえば、外向性に入るだろう。すなわち撮影者の意図がなく、商業写真などは購買意欲をかきたて、読者の意識にあわせる、といったことからわかる。</description>
    <dc:subject>クリエイティブ</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-09-14T15:27:32+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/30292/">
    <title>写真家を用いて反転関係を抽出し、考察する。</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/30292/</link>
    <description>０．はじめに
以下に、取り上げたい写真家の簡単な歴史を書き記す。

１．カルティエ＝ブレッソン （以下、ブレッソンとする）
 
絵を描くことが好きだったため、彼は写真に絵画の黄金分割比の構図を持ち込んだ。また、ランボーにあこがれて生死をさまよった経験から彼は、「絵画は瞑想で写真は射撃」だと述べている。その後、彼の必須アイテムとなるあのライカを手に入れて、彼は「目の延長となり、片時も手放さず撮りまくった」。いいかえると、「直感的な感覚と行動で決定的瞬間を捉える天才であった」ブレッソンは、「ライカ＝カメラ＝目＝撮影が肉体の一部」になっていていたといえよう。そして彼の撮影スタイルは、小型カメラを片手に目立たないようにカメラと自身の存在を消し、ピントすら目測であわせるというもので、肉体の一部であるという感覚がわかるだろう。ただし、撮りまくり歩き回るという体力が必要であることも付け加えておく。それゆえ、１９７０年代で事実上の「引退」をした。しかし、当時大型カメラが主流でプリント時のトリムが前提であり、そして写真が出来上がっていた。一方ブレッソンは、小型カメラゆえに粒子状態がトリムすると汚くなるため、瞬間できまるフレーミングの構図が、写真の構図にそのままなるというフルサイズの考えや感覚を持っていた。またそうして彼が完成させたスナップ写真や、シャッターを切るときの構図への撮影者の意識の介入は、共に今も脈々と写真を撮る人間には受け継がれている。

いくつか彼のことばを用いる。
「主題と構図が一致したときが決定的瞬間」であるといい、主題とは「いろいろな事実から本質的なものを選び出すことであり、自分自身が認識したものに対して自分の立場を定めることである。また構図については内容から切り離すことはできず、必然性がなければならない」という。
また、「黄金分割比を用いた構図の意識は撮影者の肉眼の中に存在し、撮影と同時に構図は作られる」という。

シャッターを切る行為はほぼ同時的に、自分自身の認識が生じる。認識は、あくまでもブレッソンの意識によってであり、大いにそこに主観性が写真に溶け込んでいる。同じ場所であってもそこでシャッターを切るか否かは個々人異なり、シャッターを切ったとしても、どのタイミングで切るかはさらに人によって異なる。だから、いくら影を潜めて撮るという彼のスタイルがあっても、彼の存在が、意識が、その写真には確実に漂っている。また、報道写真をやっていた時代にも彼の写真は、彼の興味のあるものばかりを撮っていたという。本来は、報道する側の興味を察知し、それにカメラを向けなくてはならない。

２．ベッヒャー夫妻
 
人工物、それも産業時代の証拠物である建造物を一貫して大型カメラで撮影し、それらを採集していった。すべての写真において、「被写体は紛れもなく画面の中心に置かれ、少し高め」の視点から撮られ、すべてが「曇天下」である。そして「パースペクティブの強調や、光の演出」がなく、被写体への表現としての正面ではなく、物理的・数学的な正面性の追求をし、作者の主観を極力取り除き、写真には撮影者の意識を感じさせない。させないからこそ、それらの膨大な写真たちはミニマリズムを帯び、「あるひとつの種類の産業建造物（たとえば石炭貯蔵庫）のいくつかの写真を格子状に組み合わせ、互いに関係をつけることによって生まれる写真の複合体」にすることが可能となり、それを彼らは「タイポロジー」とし、写真集を発売した。この写真集は写真業界ではなく、コンセプチュアルアートの流れから見いだされ、有名になった。これらの写真の主体はどこにあるのだろうか。おそらくそれは被写体であろう。撮影者の自由度はほとんどなくなり、しかし、それにより被写体が主体性を帯びる。絵画は対象物への主観を大切にする。それゆえ彼らは写真への絵画の介入を嫌い、写真の絵画への回顧を否定した。それらは彼らの教育の場、ベッヒャークラスから生まれた写真家たちが絵画の考えを導入した際に、彼らに述べたことでもある。

３．反転関係の抽出
１．と２．から反転関係を抽出し、以下に羅列する。

絵画への写真の介入をした/しない
使用しているカメラが小型/大型
構図はお互い凝っているが、主観は構図にある/被写体にある
シャッターチャンスは、瞬間だ/瞬間ではない
シャッターチャンスに直感的な感覚が必要/数学的な緻密さが必要
個々の写真が比較可能ではない/可能だ
構図の黄金分割比は撮影者に備わっている/構図に数学的な厳密性を持たせている
ピントは目測/厳密に徹底して合わせる
写真界/コンセプチュアルアートの流れから有名に
体力低下に伴い引退/教育をし始める
写真に人物が写っている/写っていない

４．考察
「芸術の一部である写真」を「写真が芸術の一部を作っている」と、哲学を変えたベッヒャー夫妻の写真による芸術領域の拡大は、同時に主観性というものを深く問わなくてはならないことに気づく。シャッターをきる行為が心理学的な分節と似て、撮影者の過去・歴史のある環境ゆえの認知であり、それゆえ無意識にその人の意識が混入している。撮影者自身の構図の癖などは、そうしてうまれると私は考える。ブレッソンは認知が研ぎ澄まされていたのだろう。と同時に写真には深く主観性が入り込む。最も大きい反転関係はそこにある。いつもは構図に主観性が入り込むことを、むしろ芸術写真を撮る際にはわたしは歓迎するが、たしかに、仕事で撮影する絵画の記録写真などではそれを嫌い、その人の持つテクニックが最大限に重要視される。つまり写真に主観性が入ってはいけない。被写体の絵画が主観にならなくてはならない。これはモデルを撮影するときに２つの撮り方があることに似る。モデルの魅力を最大限に引き出す撮り方と、撮影者の意図するようにモデルを動かす撮り方。しかし、この関係は、商業写真・芸術写真の分け方に過ぎない。ベッヒャー夫妻は、被写体を主観にした上で、それらを集めるという別次元で彼らの主観性を表出させた。さらに写真に人物が写っている/写っていないという反転関係は、たしかに人物が写真に写っていると見る側は、それに感情移入し、主観的な感情を持ってしまうということから、納得がいく関係ではなかろうか。

また、カメラが小型・大型という反転関係も、実はかなり重要である。二人（厳密には３人だが）の撮影スタイル、表現の形、哲学、ほとんどにそのカメラの特性が含まれている。たとえば、大型カメラを手にしたブレッソンは、彼の作品が撮れないことになる。第一に目測でピントなど合わせられない、被写界深度が敏感だからだ。カメラによって規定される写真の表現性は大切であることが伺える。日本における現在のスナップ写真の流行は、おそらく、小型でおしゃれなトイカメラや、気軽にフィルムを気にせず撮影できるコンパクトデジタルカメラ、さらには携帯についているカメラなど、小型カメラの流行が根本にある。

ファッション雑誌を見てほしい。原宿・渋谷などの街行く人々のおしゃれな人特集などといって、よくスナップ写真やポートレイト写真が載っている。それらは撮影場所が異なるだけに、比較ができる写真たちには仕上がらない。もっといえば、取材されたモデルの魅力を引き出すということを考えれば、同じ場所であっても、ポージングは異なるに決まっている。しかし近年、「Tokyo graffiti」という雑誌が株式会社グラフィティマガジンズから月間で発刊されている。これもファッション誌ではあるのだが、中を見ると、たとえば渋谷のギャルを一人一人、すべて同じポーズで撮影し、編集で背景を消して紙面上でそれらを並べるだとか、ホットパンツをはいている女性を同じように撮影し、背景を同じ場所で撮って並べて掲載している。そして見る側に何かしらのシュールさやリズムを生み出させる。これはベッヒャー夫妻が行った考えと似たものがあるのではないかと考える。つまり、ファッション誌上においての、「個々の写真は比較可能ではない・可能だ」の反転関係が生まれたことになる。

５．引用・参考文献
引用・写真芸術のリアリティ　京都造形芸術大学編　角川出版
引用文は「」でくくってある。
参考文献・Tokyo graffiti株式会社グラフィティマガジンズ
世界の写真家101 多木　浩二・大島　洋　新書館
Art photo site http://www.artphoto-site.com/story91.html
</description>
    <dc:subject>クリエイティブ</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-07-14T14:45:06+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/30260/">
    <title>写真を撮ることを通じて考えること</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/30260/</link>
    <description>Articulationという感覚を、写真をやっていて後から実感した。
すなわち、見ることと認識することが異なることだ。

同じ音でも言語によって表現が異なる鶏の鳴き声。
各国によって異なる虹の色。

視覚に関しては生理学的なこともかなり多く盛り込まれてはいるが、
その人が生きてきた自らしかいない世界観は、
個人の認識に大きな影響を与えている気がする。

写真は、たとえばスナップで如実に現れる性質として、
そのひとが見ている世界観の固定と、無意識に混入するその世界観の
切り取る癖の表出がある。
この性質において、多く３５mmフィルムの普及に伴う、現像時のトリミング
の廃退にも影響を受けたであろう、構図の枠意識が、撮影者にどのような
世界観を抜き出す（と同時に安定化を図っている）かを
きめる要因のひとつのような気がしている。

日本の国旗のように、枠の真ん中にある丸は確固たるイメージをあたえるが、
それは見ているこちらの意識を安定させるからだと思う（磁場のようなベクトルを
それに重ねると、確かに安定する）。
そのような意識における安定性という意味で、世界を切り取り固定化をするという、
認識プロセスを上述した。

神経やコラーゲン、筋肉線維であったって、同じ構造をしている。
そしてそれは電線と同じ構造であり、
コラーゲンにおいてのコラーゲン分子（αへリックスの３本）は
まさにロープ同様の構造をしている。
プロテオグルカンという、関節や軟骨に含まれるショック吸収剤は、
電気的に働くスポンジのような構造（反発）をし、役目を果たす。

当初、顕微鏡をのぞいても
何がなんだか分からなかった模様は、それぞれに名前をつけて
意味をつけて、人間はそれらを認識をし抽象化して、
人間の世界観で機能を理解しようと努力する。

世界を認識する人間の癖が垣間見れる。</description>
    <dc:subject>クリエイティブ</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-07-13T13:52:15+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/26516/">
    <title>写真展-the stream of consciousness</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/26516/</link>
    <description>写真展のお知らせ！ 

"the stream of consciousness" 
会期：３月１１日（火）～１６日（日） 
時間：１１時から１９時（１５日は～２1時、１６日は～１７時） 
会場：Gallery Le Deco 6 
作家：時田(東京医科歯科大)・向後(東京工業大)・中川（東北芸術工科大） 
website for PC：http://dtmix.fc2web.com/thesoc.htm 

連続する世界を切り取り、その断面を露呈する写真。それは可視的な動だけではなく、人の意識の流れをも切り取っていく。切り落とされた意識の流れには、動であった形跡が確かに残り、見る人の中で時に再び流れ出す。 

全倍（全紙の約２倍）や大全紙サイズで豪華に展示します。 
来ていただける場合は、ご一報いただけると助かります。 
来ないと損しますけどね。 

時田 


</description>
    <dc:subject>イベント・個展・展覧会</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-03-10T00:56:15+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/25043/">
    <title>写真展のお知らせ</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/25043/</link>
    <description>今週末に大学生の写真展があります。 

第２回東京４大学連合合同写真展 
(東京医科歯科大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学) 
写真展・テーマ：自答 
会期：平成２０年１月１２日(土)１１時～１９時 
　　　平成２０年１月１３日(日)１１時～１７時 
開催場所：池袋オレンジギャラリー 
　　　　　http://www.e-tamaya.biz/og/ 

http://tmduphoto.web.fc2.com/4se.htm 
に詳しく乗ってます。 

私たちはいつも人それぞれ何か自分なりの問いを持っています。答えるのがとても簡単な問いもあります。一方で答えを出すのにとても時間がかかり、現時点で答えを出すのは不可能かもしれないような、もしかしたら答えなど存在せず、問い続けること自体が無意味かもしれない問いもあります。今回の写真展はこのような問いに対する答えを写真によって表現しようというものです。その答えは完璧ではないかもしれません。しかし、完璧ではなくても、今の自分にしか出せない答えもまた意味のあるものなのではないでしょうか。このような思いでこの、「自答」というテーマを設定しました。悩み、考えて出した今の自分にしか出せない答え、それが今回の私たちの作品となるのです。 

ご高覧お待ちしております。 
代表：時田（東京医科歯科大学写真部部長）

</description>
    <dc:subject>イベント・個展・展覧会</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2008-01-09T15:38:14+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/20600/">
    <title>写真の芸術性の再視を。</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/20600/</link>
    <description>最近の写真、偶然性が重視されすぎている。 
見る側も、単純でわかりやすいのだろう。 
たしかに、偶然の写真は、 
おや？おもしろ！ 
といったところに引っかかりやすい。 
見やすいのだろう。 

まて 

だから、もっと、 
写真を撮るんじゃなくて創れ。 

相手に自分の意図が意図通り伝わる写真がウケている。 
そーいう写真はプロが仕事の写真としてやっていればいい。 
芸術の写真は、意図通り伝わってしまうわかりやすさは 
必要十分条件じゃない。 

考えてくれ。みて考えてくれ。 

抽象絵画って見る？ 
見て何か思う？ 
インスタレーション見る？ 
見て何か思う？ 

感じてくれ。 
意図通りじゃなくても、見る側がなんでもいいから 
考えてくれ。 

そういう、写真を、撮ってほしい。 

たくさんの写真を最初はランダムに撮って、 
しかしそのうち自分の癖が見えてくる。 
そしたら、その癖を最大限に生かして、 
自分が何を表現できるか構築して。 

きもちいいよ。
</description>
    <dc:subject>プロジェクト</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2007-07-29T06:50:16+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/20599/">
    <title>女性の血液について</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/20599/</link>
    <description>はじめに
　ユタさんになるのは女性が多いらしい。なぜだろう。考えてみれば写真表現をやっている私(男性)も、よく女性をモデルに使う。なぜわたしは使うのか。個人的に感じていたのは、以前ある女性をモデルにしたとき、「海」、「潮」のイメージだった。なぜそう思ったかは感覚であるため言及できないが、男性であるわたしには、女性がなにか神秘的なものを持っていることを感じていた。そのためシャーマンやユタさんにみられるような境界線を越えた存在として、わたしには女性がひとつのキーワードになった。

血
血は不思議な液体である。わたしは写真をやっているのだが、一時期わたしの本物の血を撮っていたことがある。ある作品で、血を使っているのだが、一見それには見えないようなものがある。その作品を人に見せ、これは本物のわたしの血だ、というと、みている人のリアクションがさまざまで面白い。中にはすぐに目を伏せる人もいる。

血と女性
わたしが思うに、女性は血を見慣れている。なぜ見慣れているのか。それは、月に一度の生理という痛みを伴わない出血と、子を産むときに必然的に出血してしまうからである。そして、男にとってそのような出血は、不思議なことである。「女の民俗学」ではこの血を、男性が女性に対して覚える恐怖心の根本的な要因であると述べている。わたしは恐怖心があるとまではいかない。しかし、女性の生理は医学的にも「体内における液体である血液が、大量に増加するときと減るときと、女性の生理というのはそういうリズムによって支えられているわけでありますけれども、一方には月の満ち欠けというものが体内の水分の増減に関係し、また干満を示す海の潮が同様のリズムを作っていて、女性の場合は、その月の満ち欠けと海の満ち引き、干満、満潮というものの両方を自分の身体の内部で受け止めるという構造をもっている」ということは言われているように、なにかしら男性からみると女性は神秘的なものを持っているような気がする。そしてわたしのイメージした「海」や「潮」もこのあたりで関わってきているのかもしれない。いずれにせよ、女性にとって血は日常的なものであり、特に初潮は、現代でもお赤飯を炊くという儀式としても残っているのは事実だ。また生理の血が、豊穣儀礼の中に取り込まれ、山間部の畑作地帯に比較的多くあるのだが、畑にまかれていたそうだ。また授業でもあったが、生理用品が田畑からでてきたことも多々あったそうだ。このように民俗学的にも生理の血は何かしらの意味のある液体だった。また、女性は出産時にも血と付き合う。子を授かるという、「霊的かつ物理的な力を発揮する」とき、同時に大量の出血をする。濡れ女や磯女といった言い伝えは、そのように大量出血により不足した血を男に吸い付き取り返す妖怪として現れている。著者も述べているが、わたしはこのような事例に、血を日常的なものとする女性の恐怖心を感じた。また「産女の話」は、「橋とか坂とか四辻とかそういうところから出現してきて、そして異常な力を男に与えていく」という話が多くあるようだ。授業でも出てきたように、境界上から現れる幽霊・妖怪であり、このことからも女性に対する恐怖心とともに、どこか人間という境界線を超越していた魅力を秘めていたのではないかと、わたしは推測できると思う。

月
月は女性の生理と関係する。「女の民俗学」によると、「月のもの」という言葉があり、それは生理の別称であるという。このことからも、関係性は昔からあるとされてきたことがわかる。また、満月の夜は血潮が騒ぐ、血が騒ぐといった表現は、今度は生理ではなく、血と月の関係性があったとされてきたからだと述べている。確かに、血は液体であり、海の潮の満ち引きをつかさどる月と似せて、月を生理とすれば、体内の液体をつかさどる月としての考え方もできる。わたしの頭に浮かんだ「海」「潮」も、無意識にこの考えが働いていたのだろうと、再認識できた。民俗学の事例としては、「月小屋」なるものがあったという。それは、生理になると一週間、その隔離ともいうべき別空間で女性は暮らす。また出産の場合も同様の別空間へと隔離されていた。その小屋の名前に月がはいっており、この「月」のもうひとつの意味を感じさせる。

女性の視点
大量出血したら死ぬ。それなのに、女性は、痛みを伴わない出血を毎月する。わたしは、「月小屋」という隔離の方法には、男性側の意志がかなり入っているように思う。なぜなら、女性は出血により死に向かうことを、毎月痛みもなく行い、それが男性側からすれば畏怖の念になっていたのだろうと思うからだ。しかし、女性の側は、そのように隔離されている間、実は、女性同士で性教育や機織の教育などが行われていたようだ。このようなデータからも、男性側からの考えであると思われる。授業において、中国からの血盆経にふれて、血の「穢れ」について触れていたが、それも男性側の考えではなかろうか。最初に述べたように、女性にとって血は見慣れたものである。それなのに「穢れ」とするのはおかしい。このように、男性中心の文化形成が前提となっていたと思う。また、だから男性が女性を畏怖の目で見て、女性の幽霊や妖怪の話ができたのではなかろうか。

まとめ
当初感じていた女性に対する神秘的な感覚は、男性からの視点であることが明確になった。もちろんわたしが男性であるのは当たり前だが、それ以上に、過去の歴史を民俗学的に振り返っても、多くの男性が神秘的というよりは畏怖の目で女性を見ていた面があったということが確認された。そしてだからこそ、男性の目からすれば、女性は人間という境界を越えた存在で、宇宙にある月とリンクしているというふうにいわれたのだろう。もちろん、それらは女性からすれば日常的であり、大人ならば、血も毎月見なくてはならない液体であるのだ。

参考文献
　日本を語る１１　女の民俗学　宮田登　著　吉川弘文館
</description>
    <dc:subject>プロジェクト</dc:subject>
    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2007-07-29T06:50:16+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/18189/">
    <title>「『自己』と『他者との関係性』について」～意識の安定性から考える～図は略</title>
    <link>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/18189/</link>
    <description>参考文献
鷲田清一
「じぶん・この不思議な存在」（講談社現代新書）
「教養としての『死』を考える」（洋泉社）

１．じぶん
「じぶんとはなに」と考えたのは高校3年生のときであった。いや、正確に言えば考えさせられた。そのときの話をしてみる。私には優秀な私立高校に行き東大を目指す女友達がいた。しかし実際には高校三年の時点で自らの成績不振で自らを追い詰めていて、彼女は家族や学校との話し合いの結果、勉強による否定意識をまずは取り除く考えから現役の受験はやめることになった。どのくらい追い詰まっていたかといえば、彼女は学校出ればすなわち勉強をすることしか頭になく、3年通った高校の周りにある遊び場(たとえばカラオケができるビルの場所)をまったく知らないほどに勉強しかみえず、さらに親ともあまりうまくいっていなかったために結果として自分の成績は自分の責任としてすべてを背負っていた。そのような状況で受験を半分強制的にやめさせられた彼女は、このような事態に陥った原因をあれこれ考えていた。そしてその考える定義域は、それこそじぶんのなかだけだったのである。ひとつのことに熱中する性格だったのもあるが、とにかく自分の思考をめぐらせ原因を探っていた。探ってくたくたになり包丁を片手にわたしに電話してきたこともあった。当時のわたしは哲学などには興味はなくただ写真が好きな高校生であったが、このような相談にはひたすら「もっと外部を見ろ」と答え、彼女の「死にたい」という発言に対して漠然とそのような死は彼女の中での死であり現実の死とは異質だと感じていたことを今でも覚えているし、本人もそれを認めた。そのような感覚から「じぶんとはなに」か、を考え始めていた。ちなみに彼女は現在半年の浪人生活の末、東大ではないものの大学生になっている。

２．他者
じぶんが存在するときには「他者」が存在する。答え探しをじぶんの中から探していたその彼女の話を聞くときに、「他者」は彼女のことばのなかに現れ、それは彼女の答え探しの物語を作り上げる一部分となっていた。たとえば家族関係で親を完全に彼女は無視していたが、それを語るときに親は自分ではない「他者」として語られた。しかしこの「他者」は他者ではない。つまり、例からいえば親自身ではなく親のじぶんの中にあるイメージ、または像の「他者」である。また別の例を挙げる。中学２年生で友達に誘われて援助交際を始めた子がいた。この子はのちにじぶんの表沙汰にできない行為を家族や以前からの友達にいえずに抱え込み、それが過剰になり他人の目線を気にさせるまでに至り、対人恐怖症とうつ病となり家から半年間出られなかった。この場合の対人恐怖症は自らの公にできない行為を友人に隠し続けなくてはならないことや、そのような行為をしてしまう自己否定、また援助交際ネットワークには必ずといっていいほど暴力団の男性がいるので、売買した男性にはもう会いたくないという恐怖感などがあった。そのような他者からの視線は、じぶんのなかでイメージの「他者」からの視線となっていると思う。とくに覚えているはずもない相手した男性の顔からの視線が人のいるところ常に感じる視線となっていたのは確かで、３ヵ月後始めて外に出たときは目深に帽子をかぶっていた。

３．意識場
主観的で申し訳ないがわたしは写真を芸術としてやっている。写真を撮るときにはいつもここだという構図を見つけてはシャッターを切るのだが、それはまさしく、じぶんの目に見える風景からじぶんの意識で分節する行為ではなかろうか、と思っている。このような理由からわたしは「意識」について考えることがある。意識はまた安定する方向を目指す。写真の構図は、窮屈でもなくのびのびとでもなく黄金比を満たしているような場合が良いとされている。黄金比に限られないだろうが、このように写真は現像しプリントされたときに安定した構図が求められる。たとえば国旗などで四角の中に丸を描くとき、確固たるシンボルとして丸を描くときはその丸は四角の中央に描く。これは真ん中に置くことで四角と丸に対する見る人の意識の安定が、「確固たる」イメージとつながるためだと説明できると考える。また心理療法において紙に枠を与えることで自由に絵を書けるクライアントが多くいて、それに枠療法という名前がついていることからも、枠が持つ意識の安定性があるといえる。この意識の視点からじぶんと他者の関係を考えてみる。そこで導入する考えは「場」である。「場の倫理」とは別の考えであることに注意してもらいたいのだが、このモデルは流体力学などで用いられる場であり、電磁場や重力場とも同じである。あなたは高校時代、ある物体（質点）から地球に向かって矢印（ベクトル）を引いたことはないだろうか。それは質点にかかる力の向きと大きさを表した空間（平面）であり、重力場である。このような場の考えにおいてその場を満たす媒質も大切である。たとえば、重力場においてある質量が移動する。この時媒質が真空か空気か蜂蜜かによって質点に対する力のかかり方は変わる。安定はここでは力の釣り合いとして表現できることに注目してもらいたい。

３．１．外向性意識
じぶんと他者の関係性のうち、たとえば会話というコミュニケーションについて取り上げる。そして場で意識を表すと、
Ａ「昨日の晩御飯、なに食べましたか？」
Ｂ「オムライスを食べました、ケチャップかけて。」
このときのＡさんの意識とＢさんの意識は向かい合って、それぞれが発する意識ベクトルがかみ合って「ふたり」という状態で安定する。
 (図?)
図?は上の会話を行ったときの意識場における意識の様子(ある時刻で固定)である。このような状態をＡ(Ｂ)さんの外向状態と呼んでみる。このときＡ(Ｂ)さんはそれぞれの話し相手を意識などしておらず、じぶん自身も意識していない。しかし
Ａ「今日の晩御飯、なに食べたいですか？」
Ｂ「(わたしは)オムライスが食べたいです、ケチャップかけて。」
と「わたしは」と、他者のまえに強勢点を打ってじぶんを意識させるときがある。この強勢点を打たされたわたしの感覚をもたらす意識はなんだろうか。それを次に挙げる。

３．２．内向性意識
もう一つの安定のパターンとして、Ｃさんが一人で考える時の意識の様子が挙げられる。この円(球)の存在が強勢点を打たされた感覚である。
 (図?)
図?は思考時の意識の様子である。なおこれは平面での図であり実際の意識場においては球状を取るとして、これを球と呼ぶ。また球の内部に映るイメージからの意識の向きが球の中心に集中するため、この付近の媒質は固くなる。この部分を核と呼ぶ。また内向時に特徴的なのは主体と客体が生じることにある。言い換えればじぶんと他者の区別ができる。そのため区別された他者に伝えるために「わたし」に強勢点を打ったわけである。図?の点線で囲った枠がＣさんの枠であり主体でありじぶんである。この二つの意識の安定状態が複雑に３次元的に組み合わさってなんとなく球状を作っている、というのが実際の「じぶん」の意識状態ではないだろうか。上の例からすれば、相手をした顔も覚えていない男性たちの視線は、彼女の球内の彼らのイメージからの視線となり意識となり、彼女自身は意識場に球を作り上げ安定する(内向状態となる)。そして援助交際という公にできない違法行為をするじぶんに対する否定の意識が、イメージ化された友人たちから「～られる意識」として発せられ、核をつくり圧してうつ状態になると考える。

３．３．他者の認知の２パターン
外向時は自己他者の区別がなく、認知する必要もない。外向状態そのものが他者認知とも言えるだろう。またもう一つのパターンは内向時の認知である。外向きの意識のない状態の認知は実際不可能であるため、認知しようと球の中にイメージを作り出し認知したつもりになる。たとえばあなたが今好きな男性について考えたとしよう。その男性の誕生日に何をあげようか、とあなたは考えあぐねる。しかし実際はそのプレゼントはあまり男性にとって嬉しくないものかもしれない。その状態がここで言う内向時の他者認知である。この考え方は「だまし絵」を例に用いたメタコミュニケーション的了解（西村清和:電脳遊戯の少年少女たち参照）にも当てはまる。つまり、だまし絵の階段をある人は階段だと瞬時に無意識に内向状態で察知するが、実際はそれが絵であると触って（触るという外向意識の働きがある）からわかるのだ。これが内向状態と外向状態の認知パターンの差である。「じぶん・この不思議な存在」においても「の宣言にはわたしの死が構造的に必然的である」のは、宣言をする場合には必要条件として相手がいて、その相手とともに外向的安定状態となると同時に内向状態に存在していたはもういない(死んでいる)、という説明ができる。そして外向状態というのは、「それぞれのにとって異なるということはだれも認めないはずがないのに、こうしたいわば自明のことがらが、わたしたちが具体的な他者に直面しているときに案外忘れ去られている」と述べられている状態である。

４．見る／見られる
いつも通る道の風景を見る。ボーっと見ることもあれば、薬局を探していることを前提に見たりする。分節ということばも絡めれば、なにかの模様と見るか、これらは文章を構成している文字として見るかという違いがある。このように見るという行為には深度があるように思う。同様にじぶんの解答に間違いがないか見直しする行為は、見る深度を一段階深めて（簡単に言えば慎重に）見る行為であろう。また空想で何かを見ることもある。好きな人を思い浮かべてにんまりしているときには、その人のイメージを見ている。このように、見るという意識は外向きで（たとえば「探す」という行為）、そのベクトルには深度というか強度があると思う。一方その逆である見られる意識もある。太陽からの光線は、モノや人にあたり反射してわれわれの眼に入る。つまり光線を意識と置き換えれば、「机がある」と認知するのは机によって見られている意識があるのだ。もちろん視覚だけが感覚だというつもりはないが、その要素としてはあると思う。これがモノではなく人である場合はだれか他者に見られることになり、それは外から内への意識である。たとえば右隣の友人が私を見ていることに気がついてそちらを向くというほぼ無意識的な行為は、見られる意識と見る意識のそれぞれのベクトルの安定を狙った行為であり、同時に外向状態となる。もちろん見られる意識のベクトルにも強度がある。しかしこの強度は感受するじぶんの感度となる。たとえば対人恐怖の場合その感度は相当に高くなる。しかもこの場合は、だれか他者に見られる意識だけでなく、内向状態に存在する顔すら持たないイメージとしての「他者」に見られる意識があるため、それを見る意識でもって安定させることができない。先に挙げた彼女は、内向状態を弱くする（こころのうちを話す）ことによってイメージの「他者」を消す（忘れる）カウンセリングをしていた。このように見る／見られる意識は逆方向のベクトルとして存在している。

５．他者危害原則
これは「教養としての『死』を考える」を読んで初めてこのような言葉があることを知った。つまり「他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」という考え方である。これは援助交際をしている子によくある身体感覚であるが、この原則は実際に例としてあげたように、何をしても良いが、その「何をしたか」はその他人にはいえない。具体的に言えば、「何をしたか」を友人に言えばその人は友人でなくなる可能性がある。そのためしばしばじぶんを気にしながら会話することになり、完全な外向状態を取りながらのコミュニケーションができずに内向状態を作り出していってしまう。そしてこの内向状態においてはじぶんと他者の区別ができているために、じぶんという身体感覚が生じているのではないかだろうか。またこの原則が成立ための必須アイテムがある。それはケータイだ。ケータイは、コミュニケーションの相手が他者か「他者」か、という区別をなくしてしまった。つまり電話をしたりメールをしたりするときの相手は、じぶんの中にあるイメージとしての相手であり、そしてその相手へのことばがそのまま本物の相手に伝わっているのだ。誰か好きな人に「好き」と伝えるときにメールや電話のほうが伝えやすい理由は、ケータイを手にして伝える本人は、じぶんの中に存在するイメージの好きな人に言えばいいだけであるからだ。このように内向状態で抱え込む悩みや苦しみといったものが、内向状態のままに他者とコミュニケーションができてしまっている。そしてこのことはじぶんの物語を作る機会をなくす。たとえば他人に手紙を書くとき、伝えたいことが文章としてうまく書けず何度か書き直したことはないだろうか。この行為は自然と他者に伝えようと、「他者」をよく見定めながら、いまじぶんが存在するまでの過去や未来の連続化(と同時に記憶の銘記もあるわけだが)をして物語を作っているのだ。しかしケータイのメールとなると文章というよりかは会話文や単語だけ、または伝える内容もなく「なんとなく寂しい」といったメールもある。このような状態だと他者に伝える文章は作る機会がなく、「他者」を見定めることもなくじぶんの物語を作る機会も減ってしまうのだ。よって内向状態でありながらじぶんの物語の存在しないため、「なんとなく浮いている」若者の存在感覚になるのかもしれない。

６．模倣とIdentity
「じぶん・この不思議な存在」から、「発音のしかた、手の動かしかた、表情のつくりかた、排泄のしかた、手の動かしかた、歩きかた、さらには他人のいじめかたまでふくめて、わたしたちはすべてを模倣からはじめた」と引用する。たしかにそうであろう。二十歳のわたしですら友人の癖がうつることはある。これは次のように説明できないか。ある友人と外向状態にあって、で話し終わって別れそれぞれ内向状態となる。するとその友人はわたしのなかにイメージとして存在する。次にその友人と会い、会話などの内向状態から外向状態になるときにベクトルの安定を考えてみると、まずその友人のイメージからの見られる意識と見る意識とで安定化し、力の釣り合いが成立し内向状態が弱まった後で友人自身と外向状態となる。模倣はそのような過程の中でその友人のイメージがわたしに身体化してしまったのではないだろうか。自己Identityはそのような過程での身体化を示す例である。つまり内向状態でこうあるべき自己イメージを作って、それをみたすように努力するという安定化の行為は、意識レベルから身体レベルに及んでいる。模倣も同様なのではなかろうか。

７．さいごに前提条件
じぶんと他者との関係性はこのようなイメージで、意識の安定化をめざして意識は動く。しかし他者がいる以上安定はいつも壊されて、他者がいる状態で安定をめざす。前提状態はこれらがイメージであることだ。そしてこのイメージ自体の存在がないこともあるのだ。外向時はもちろん、感情が身体を動かすときには間違いなくこのイメージは存在しない。
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    <dc:creator>DaisukeTokita</dc:creator>
    <dc:date>2007-07-29T06:47:21+09:00</dc:date>
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