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  <title>loftwork.com - DaisukeTokitaのブログ</title>
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  <updated>2008-10-12T15:14:23+09:00</updated>
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    <title>瞬間的な写真に時間を焚きこんだ写真展示。</title>
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    <published>2008-10-12T15:13:54+09:00</published>
    <updated>2008-10-12T15:14:23+09:00</updated>
    <summary>お茶の水にある、東京医科歯科大学の写真部をしております時田と申します。 
すこし宣伝をば。 

１８日１９日にあります文化祭において、写真部の写真展を行います。 
写真展の詳細は、以下のwebサイトに載せてあります。 
http://tmduphoto.web.fc2.com/ochasa...</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
      <uri>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/</uri>
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すこし宣伝をば。 

１８日１９日にあります文化祭において、写真部の写真展を行います。 
写真展の詳細は、以下のwebサイトに載せてあります。 
http://tmduphoto.web.fc2.com/ochasa...</content>
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    <title>写真に対する定義</title>
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    <published>2008-09-14T15:27:29+09:00</published>
    <updated>2008-09-14T15:27:32+09:00</updated>
    <summary>私は写真を手段と定義したい。絵画などと違って、写真は集合写真などの記録目的、スナップ、デジカメや携帯写真などの、日常の用途としても使われる。これらは写真の持っている記録保存という特性を手段として用いたものだ。また、多くの雑誌や広告に見られる商業写真は、現実を異化させるという、自動化からの枠付けをする...</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
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    <title>写真家を用いて反転関係を抽出し、考察する。</title>
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    <published>2008-07-14T14:44:49+09:00</published>
    <updated>2008-07-14T14:45:06+09:00</updated>
    <summary>０．はじめに
以下に、取り上げたい写真家の簡単な歴史を書き記す。

１．カルティエ＝ブレッソン （以下、ブレッソンとする）
 
絵を描くことが好きだったため、彼は写真に絵画の黄金分割比の構図を持ち込んだ。また、ランボーにあこがれて生死をさまよった経験から彼は、「絵画は瞑想で写真は射撃」だと...</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
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以下に、取り上げたい写真家の簡単な歴史を書き記す。

１．カルティエ＝ブレッソン （以下、ブレッソンとする）
 
絵を描くことが好きだったため、彼は写真に絵画の黄金分割比の構図を持ち込んだ。また、ランボーにあこがれて生死をさまよった経験から彼は、「絵画は瞑想で写真は射撃」だと...</content>
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    <title>写真を撮ることを通じて考えること</title>
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    <published>2008-07-13T13:52:12+09:00</published>
    <updated>2008-07-13T13:52:15+09:00</updated>
    <summary>Articulationという感覚を、写真をやっていて後から実感した。
すなわち、見ることと認識することが異なることだ。

同じ音でも言語によって表現が異なる鶏の鳴き声。
各国によって異なる虹の色。

視覚に関しては生理学的なこともかなり多く盛り込まれてはいるが、
その人が生きてきた自...</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
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すなわち、見ることと認識することが異なることだ。

同じ音でも言語によって表現が異なる鶏の鳴き声。
各国によって異なる虹の色。

視覚に関しては生理学的なこともかなり多く盛り込まれてはいるが、
その人が生きてきた自...</content>
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    <title>写真展-the stream of consciousness</title>
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    <published>2008-03-07T16:57:38+09:00</published>
    <updated>2008-03-10T00:56:15+09:00</updated>
    <summary>写真展のお知らせ！ 

"the stream of consciousness" 
会期：３月１１日（火）～１６日（日） 
時間：１１時から１９時（１５日は～２1時、１６日は～１７時） 
会場：Gallery Le Deco 6 
作家：時田(東京医科歯科大)・向後(東京工業大)・中川...</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
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"the stream of consciousness" 
会期：３月１１日（火）～１６日（日） 
時間：１１時から１９時（１５日は～２1時、１６日は～１７時） 
会場：Gallery Le Deco 6 
作家：時田(東京医科歯科大)・向後(東京工業大)・中川...</content>
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    <title>写真展のお知らせ</title>
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    <published>2008-01-09T15:37:52+09:00</published>
    <updated>2008-01-09T15:38:14+09:00</updated>
    <summary>今週末に大学生の写真展があります。 

第２回東京４大学連合合同写真展 
(東京医科歯科大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学) 
写真展・テーマ：自答 
会期：平成２０年１月１２日(土)１１時～１９時 
　　　平成２０年１月１３日(日)１１時～１７時 
開催場所：池袋オレンジギ...</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
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第２回東京４大学連合合同写真展 
(東京医科歯科大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学) 
写真展・テーマ：自答 
会期：平成２０年１月１２日(土)１１時～１９時 
　　　平成２０年１月１３日(日)１１時～１７時 
開催場所：池袋オレンジギ...</content>
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    <title>写真の芸術性の再視を。</title>
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    <published>2007-06-28T14:20:06+09:00</published>
    <updated>2007-07-29T06:50:16+09:00</updated>
    <summary>最近の写真、偶然性が重視されすぎている。 
見る側も、単純でわかりやすいのだろう。 
たしかに、偶然の写真は、 
おや？おもしろ！ 
といったところに引っかかりやすい。 
見やすいのだろう。 

まて 

だから、もっと、 
写真を撮るんじゃなくて創れ。 

相手に自分の意図が意図通り伝わる写真がウケている。 
そーいう写真はプロが仕事の写真としてやっていればいい。 
芸術の写真は、意図通り伝わってしまうわかりやすさは 
必要十分条件じゃない。 

考えてくれ。みて考えてくれ。 

抽象絵画って見る？ 
見て何か思う？ 
インスタレーション見る？ 
見て何か思う？ 

感じてくれ。 
意図通りじゃなくても、見る側がなんでもいいから 
考えてくれ。 

そういう、写真を、撮ってほしい。 

たくさんの写真を最初はランダムに撮って、 
しかしそのうち自分の癖が見えてくる。 
そしたら、その癖を最大限に生かして、 
自分が何を表現できるか構築して。 

きもちいいよ。
</summary>
    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
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見る側も、単純でわかりやすいのだろう。 
たしかに、偶然の写真は、 
おや？おもしろ！ 
といったところに引っかかりやすい。 
見やすいのだろう。 

まて 

だから、もっと、 
写真を撮るんじゃなくて創れ。 

相手に自分の意図が意図通り伝わる写真がウケている。 
そーいう写真はプロが仕事の写真としてやっていればいい。 
芸術の写真は、意図通り伝わってしまうわかりやすさは 
必要十分条件じゃない。 

考えてくれ。みて考えてくれ。 

抽象絵画って見る？ 
見て何か思う？ 
インスタレーション見る？ 
見て何か思う？ 

感じてくれ。 
意図通りじゃなくても、見る側がなんでもいいから 
考えてくれ。 

そういう、写真を、撮ってほしい。 

たくさんの写真を最初はランダムに撮って、 
しかしそのうち自分の癖が見えてくる。 
そしたら、その癖を最大限に生かして、 
自分が何を表現できるか構築して。 

きもちいいよ。
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    <title>女性の血液について</title>
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    <published>2007-06-28T14:18:43+09:00</published>
    <updated>2007-07-29T06:50:16+09:00</updated>
    <summary>はじめに
　ユタさんになるのは女性が多いらしい。なぜだろう。考えてみれば写真表現をやっている私(男性)も、よく女性をモデルに使う。なぜわたしは使うのか。個人的に感じていたのは、以前ある女性をモデルにしたとき、「海」、「潮」のイメージだった。なぜそう思ったかは感覚であるため言及できないが、男性であるわたしには、女性がなにか神秘的なものを持っていることを感じていた。そのためシャーマンやユタさんにみられるような境界線を越えた存在として、わたしには女性がひとつのキーワードになった。

血
血は不思議な液体である。わたしは写真をやっているのだが、一時期わたしの本物の血を撮っていたことがある。ある作品で、血を使っているのだが、一見それには見えないようなものがある。その作品を人に見せ、これは本物のわたしの血だ、というと、みている人のリアクションがさまざまで面白い。中にはすぐに目を伏せる人もいる。

血と女性
わたしが思うに、女性は血を見慣れている。なぜ見慣れているのか。それは、月に一度の生理という痛みを伴わない出血と、子を産むときに必然的に出血してしまうからである。そして、男にとってそのような出血は、不思議なことである。「女の民俗学」ではこの血を、男性が女性に対して覚える恐怖心の根本的な要因であると述べている。わたしは恐怖心があるとまではいかない。しかし、女性の生理は医学的にも「体内における液体である血液が、大量に増加するときと減るときと、女性の生理というのはそういうリズムによって支えられているわけでありますけれども、一方には月の満ち欠けというものが体内の水分の増減に関係し、また干満を示す海の潮が同様のリズムを作っていて、女性の場合は、その月の満ち欠けと海の満ち引き、干満、満潮というものの両方を自分の身体の内部で受け止めるという構造をもっている」ということは言われているように、なにかしら男性からみると女性は神秘的なものを持っているような気がする。そしてわたしのイメージした「海」や「潮」もこのあたりで関わってきているのかもしれない。いずれにせよ、女性にとって血は日常的なものであり、特に初潮は、現代でもお赤飯を炊くという儀式としても残っているのは事実だ。また生理の血が、豊穣儀礼の中に取り込まれ、山間部の畑作地帯に比較的多くあるのだが、畑にまかれていたそうだ。また授業でもあったが、生理用品が田畑からでてきたことも多々あったそうだ。このように民俗学的にも生理の血は何かしらの意味のある液体だった。また、女性は出産時にも血と付き合う。子を授かるという、「霊的かつ物理的な力を発揮する」とき、同時に大量の出血をする。濡れ女や磯女といった言い伝えは、そのように大量出血により不足した血を男に吸い付き取り返す妖怪として現れている。著者も述べているが、わたしはこのような事例に、血を日常的なものとする女性の恐怖心を感じた。また「産女の話」は、「橋とか坂とか四辻とかそういうところから出現してきて、そして異常な力を男に与えていく」という話が多くあるようだ。授業でも出てきたように、境界上から現れる幽霊・妖怪であり、このことからも女性に対する恐怖心とともに、どこか人間という境界線を超越していた魅力を秘めていたのではないかと、わたしは推測できると思う。

月
月は女性の生理と関係する。「女の民俗学」によると、「月のもの」という言葉があり、それは生理の別称であるという。このことからも、関係性は昔からあるとされてきたことがわかる。また、満月の夜は血潮が騒ぐ、血が騒ぐといった表現は、今度は生理ではなく、血と月の関係性があったとされてきたからだと述べている。確かに、血は液体であり、海の潮の満ち引きをつかさどる月と似せて、月を生理とすれば、体内の液体をつかさどる月としての考え方もできる。わたしの頭に浮かんだ「海」「潮」も、無意識にこの考えが働いていたのだろうと、再認識できた。民俗学の事例としては、「月小屋」なるものがあったという。それは、生理になると一週間、その隔離ともいうべき別空間で女性は暮らす。また出産の場合も同様の別空間へと隔離されていた。その小屋の名前に月がはいっており、この「月」のもうひとつの意味を感じさせる。

女性の視点
大量出血したら死ぬ。それなのに、女性は、痛みを伴わない出血を毎月する。わたしは、「月小屋」という隔離の方法には、男性側の意志がかなり入っているように思う。なぜなら、女性は出血により死に向かうことを、毎月痛みもなく行い、それが男性側からすれば畏怖の念になっていたのだろうと思うからだ。しかし、女性の側は、そのように隔離されている間、実は、女性同士で性教育や機織の教育などが行われていたようだ。このようなデータからも、男性側からの考えであると思われる。授業において、中国からの血盆経にふれて、血の「穢れ」について触れていたが、それも男性側の考えではなかろうか。最初に述べたように、女性にとって血は見慣れたものである。それなのに「穢れ」とするのはおかしい。このように、男性中心の文化形成が前提となっていたと思う。また、だから男性が女性を畏怖の目で見て、女性の幽霊や妖怪の話ができたのではなかろうか。

まとめ
当初感じていた女性に対する神秘的な感覚は、男性からの視点であることが明確になった。もちろんわたしが男性であるのは当たり前だが、それ以上に、過去の歴史を民俗学的に振り返っても、多くの男性が神秘的というよりは畏怖の目で女性を見ていた面があったということが確認された。そしてだからこそ、男性の目からすれば、女性は人間という境界を越えた存在で、宇宙にある月とリンクしているというふうにいわれたのだろう。もちろん、それらは女性からすれば日常的であり、大人ならば、血も毎月見なくてはならない液体であるのだ。

参考文献
　日本を語る１１　女の民俗学　宮田登　著　吉川弘文館
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    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
      <uri>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/</uri>
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　ユタさんになるのは女性が多いらしい。なぜだろう。考えてみれば写真表現をやっている私(男性)も、よく女性をモデルに使う。なぜわたしは使うのか。個人的に感じていたのは、以前ある女性をモデルにしたとき、「海」、「潮」のイメージだった。なぜそう思ったかは感覚であるため言及できないが、男性であるわたしには、女性がなにか神秘的なものを持っていることを感じていた。そのためシャーマンやユタさんにみられるような境界線を越えた存在として、わたしには女性がひとつのキーワードになった。

血
血は不思議な液体である。わたしは写真をやっているのだが、一時期わたしの本物の血を撮っていたことがある。ある作品で、血を使っているのだが、一見それには見えないようなものがある。その作品を人に見せ、これは本物のわたしの血だ、というと、みている人のリアクションがさまざまで面白い。中にはすぐに目を伏せる人もいる。

血と女性
わたしが思うに、女性は血を見慣れている。なぜ見慣れているのか。それは、月に一度の生理という痛みを伴わない出血と、子を産むときに必然的に出血してしまうからである。そして、男にとってそのような出血は、不思議なことである。「女の民俗学」ではこの血を、男性が女性に対して覚える恐怖心の根本的な要因であると述べている。わたしは恐怖心があるとまではいかない。しかし、女性の生理は医学的にも「体内における液体である血液が、大量に増加するときと減るときと、女性の生理というのはそういうリズムによって支えられているわけでありますけれども、一方には月の満ち欠けというものが体内の水分の増減に関係し、また干満を示す海の潮が同様のリズムを作っていて、女性の場合は、その月の満ち欠けと海の満ち引き、干満、満潮というものの両方を自分の身体の内部で受け止めるという構造をもっている」ということは言われているように、なにかしら男性からみると女性は神秘的なものを持っているような気がする。そしてわたしのイメージした「海」や「潮」もこのあたりで関わってきているのかもしれない。いずれにせよ、女性にとって血は日常的なものであり、特に初潮は、現代でもお赤飯を炊くという儀式としても残っているのは事実だ。また生理の血が、豊穣儀礼の中に取り込まれ、山間部の畑作地帯に比較的多くあるのだが、畑にまかれていたそうだ。また授業でもあったが、生理用品が田畑からでてきたことも多々あったそうだ。このように民俗学的にも生理の血は何かしらの意味のある液体だった。また、女性は出産時にも血と付き合う。子を授かるという、「霊的かつ物理的な力を発揮する」とき、同時に大量の出血をする。濡れ女や磯女といった言い伝えは、そのように大量出血により不足した血を男に吸い付き取り返す妖怪として現れている。著者も述べているが、わたしはこのような事例に、血を日常的なものとする女性の恐怖心を感じた。また「産女の話」は、「橋とか坂とか四辻とかそういうところから出現してきて、そして異常な力を男に与えていく」という話が多くあるようだ。授業でも出てきたように、境界上から現れる幽霊・妖怪であり、このことからも女性に対する恐怖心とともに、どこか人間という境界線を超越していた魅力を秘めていたのではないかと、わたしは推測できると思う。

月
月は女性の生理と関係する。「女の民俗学」によると、「月のもの」という言葉があり、それは生理の別称であるという。このことからも、関係性は昔からあるとされてきたことがわかる。また、満月の夜は血潮が騒ぐ、血が騒ぐといった表現は、今度は生理ではなく、血と月の関係性があったとされてきたからだと述べている。確かに、血は液体であり、海の潮の満ち引きをつかさどる月と似せて、月を生理とすれば、体内の液体をつかさどる月としての考え方もできる。わたしの頭に浮かんだ「海」「潮」も、無意識にこの考えが働いていたのだろうと、再認識できた。民俗学の事例としては、「月小屋」なるものがあったという。それは、生理になると一週間、その隔離ともいうべき別空間で女性は暮らす。また出産の場合も同様の別空間へと隔離されていた。その小屋の名前に月がはいっており、この「月」のもうひとつの意味を感じさせる。

女性の視点
大量出血したら死ぬ。それなのに、女性は、痛みを伴わない出血を毎月する。わたしは、「月小屋」という隔離の方法には、男性側の意志がかなり入っているように思う。なぜなら、女性は出血により死に向かうことを、毎月痛みもなく行い、それが男性側からすれば畏怖の念になっていたのだろうと思うからだ。しかし、女性の側は、そのように隔離されている間、実は、女性同士で性教育や機織の教育などが行われていたようだ。このようなデータからも、男性側からの考えであると思われる。授業において、中国からの血盆経にふれて、血の「穢れ」について触れていたが、それも男性側の考えではなかろうか。最初に述べたように、女性にとって血は見慣れたものである。それなのに「穢れ」とするのはおかしい。このように、男性中心の文化形成が前提となっていたと思う。また、だから男性が女性を畏怖の目で見て、女性の幽霊や妖怪の話ができたのではなかろうか。

まとめ
当初感じていた女性に対する神秘的な感覚は、男性からの視点であることが明確になった。もちろんわたしが男性であるのは当たり前だが、それ以上に、過去の歴史を民俗学的に振り返っても、多くの男性が神秘的というよりは畏怖の目で女性を見ていた面があったということが確認された。そしてだからこそ、男性の目からすれば、女性は人間という境界を越えた存在で、宇宙にある月とリンクしているというふうにいわれたのだろう。もちろん、それらは女性からすれば日常的であり、大人ならば、血も毎月見なくてはならない液体であるのだ。

参考文献
　日本を語る１１　女の民俗学　宮田登　著　吉川弘文館
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  </entry>
  <entry>
    <title>「『自己』と『他者との関係性』について」～意識の安定性から考える～図は略</title>
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    <published>2007-03-14T13:49:29+09:00</published>
    <updated>2007-07-29T06:47:21+09:00</updated>
    <summary>参考文献
鷲田清一
「じぶん・この不思議な存在」（講談社現代新書）
「教養としての『死』を考える」（洋泉社）

１．じぶん
「じぶんとはなに」と考えたのは高校3年生のときであった。いや、正確に言えば考えさせられた。そのときの話をしてみる。私には優秀な私立高校に行き東大を目指す女友達がいた。しかし実際には高校三年の時点で自らの成績不振で自らを追い詰めていて、彼女は家族や学校との話し合いの結果、勉強による否定意識をまずは取り除く考えから現役の受験はやめることになった。どのくらい追い詰まっていたかといえば、彼女は学校出ればすなわち勉強をすることしか頭になく、3年通った高校の周りにある遊び場(たとえばカラオケができるビルの場所)をまったく知らないほどに勉強しかみえず、さらに親ともあまりうまくいっていなかったために結果として自分の成績は自分の責任としてすべてを背負っていた。そのような状況で受験を半分強制的にやめさせられた彼女は、このような事態に陥った原因をあれこれ考えていた。そしてその考える定義域は、それこそじぶんのなかだけだったのである。ひとつのことに熱中する性格だったのもあるが、とにかく自分の思考をめぐらせ原因を探っていた。探ってくたくたになり包丁を片手にわたしに電話してきたこともあった。当時のわたしは哲学などには興味はなくただ写真が好きな高校生であったが、このような相談にはひたすら「もっと外部を見ろ」と答え、彼女の「死にたい」という発言に対して漠然とそのような死は彼女の中での死であり現実の死とは異質だと感じていたことを今でも覚えているし、本人もそれを認めた。そのような感覚から「じぶんとはなに」か、を考え始めていた。ちなみに彼女は現在半年の浪人生活の末、東大ではないものの大学生になっている。

２．他者
じぶんが存在するときには「他者」が存在する。答え探しをじぶんの中から探していたその彼女の話を聞くときに、「他者」は彼女のことばのなかに現れ、それは彼女の答え探しの物語を作り上げる一部分となっていた。たとえば家族関係で親を完全に彼女は無視していたが、それを語るときに親は自分ではない「他者」として語られた。しかしこの「他者」は他者ではない。つまり、例からいえば親自身ではなく親のじぶんの中にあるイメージ、または像の「他者」である。また別の例を挙げる。中学２年生で友達に誘われて援助交際を始めた子がいた。この子はのちにじぶんの表沙汰にできない行為を家族や以前からの友達にいえずに抱え込み、それが過剰になり他人の目線を気にさせるまでに至り、対人恐怖症とうつ病となり家から半年間出られなかった。この場合の対人恐怖症は自らの公にできない行為を友人に隠し続けなくてはならないことや、そのような行為をしてしまう自己否定、また援助交際ネットワークには必ずといっていいほど暴力団の男性がいるので、売買した男性にはもう会いたくないという恐怖感などがあった。そのような他者からの視線は、じぶんのなかでイメージの「他者」からの視線となっていると思う。とくに覚えているはずもない相手した男性の顔からの視線が人のいるところ常に感じる視線となっていたのは確かで、３ヵ月後始めて外に出たときは目深に帽子をかぶっていた。

３．意識場
主観的で申し訳ないがわたしは写真を芸術としてやっている。写真を撮るときにはいつもここだという構図を見つけてはシャッターを切るのだが、それはまさしく、じぶんの目に見える風景からじぶんの意識で分節する行為ではなかろうか、と思っている。このような理由からわたしは「意識」について考えることがある。意識はまた安定する方向を目指す。写真の構図は、窮屈でもなくのびのびとでもなく黄金比を満たしているような場合が良いとされている。黄金比に限られないだろうが、このように写真は現像しプリントされたときに安定した構図が求められる。たとえば国旗などで四角の中に丸を描くとき、確固たるシンボルとして丸を描くときはその丸は四角の中央に描く。これは真ん中に置くことで四角と丸に対する見る人の意識の安定が、「確固たる」イメージとつながるためだと説明できると考える。また心理療法において紙に枠を与えることで自由に絵を書けるクライアントが多くいて、それに枠療法という名前がついていることからも、枠が持つ意識の安定性があるといえる。この意識の視点からじぶんと他者の関係を考えてみる。そこで導入する考えは「場」である。「場の倫理」とは別の考えであることに注意してもらいたいのだが、このモデルは流体力学などで用いられる場であり、電磁場や重力場とも同じである。あなたは高校時代、ある物体（質点）から地球に向かって矢印（ベクトル）を引いたことはないだろうか。それは質点にかかる力の向きと大きさを表した空間（平面）であり、重力場である。このような場の考えにおいてその場を満たす媒質も大切である。たとえば、重力場においてある質量が移動する。この時媒質が真空か空気か蜂蜜かによって質点に対する力のかかり方は変わる。安定はここでは力の釣り合いとして表現できることに注目してもらいたい。

３．１．外向性意識
じぶんと他者の関係性のうち、たとえば会話というコミュニケーションについて取り上げる。そして場で意識を表すと、
Ａ「昨日の晩御飯、なに食べましたか？」
Ｂ「オムライスを食べました、ケチャップかけて。」
このときのＡさんの意識とＢさんの意識は向かい合って、それぞれが発する意識ベクトルがかみ合って「ふたり」という状態で安定する。
 (図?)
図?は上の会話を行ったときの意識場における意識の様子(ある時刻で固定)である。このような状態をＡ(Ｂ)さんの外向状態と呼んでみる。このときＡ(Ｂ)さんはそれぞれの話し相手を意識などしておらず、じぶん自身も意識していない。しかし
Ａ「今日の晩御飯、なに食べたいですか？」
Ｂ「(わたしは)オムライスが食べたいです、ケチャップかけて。」
と「わたしは」と、他者のまえに強勢点を打ってじぶんを意識させるときがある。この強勢点を打たされたわたしの感覚をもたらす意識はなんだろうか。それを次に挙げる。

３．２．内向性意識
もう一つの安定のパターンとして、Ｃさんが一人で考える時の意識の様子が挙げられる。この円(球)の存在が強勢点を打たされた感覚である。
 (図?)
図?は思考時の意識の様子である。なおこれは平面での図であり実際の意識場においては球状を取るとして、これを球と呼ぶ。また球の内部に映るイメージからの意識の向きが球の中心に集中するため、この付近の媒質は固くなる。この部分を核と呼ぶ。また内向時に特徴的なのは主体と客体が生じることにある。言い換えればじぶんと他者の区別ができる。そのため区別された他者に伝えるために「わたし」に強勢点を打ったわけである。図?の点線で囲った枠がＣさんの枠であり主体でありじぶんである。この二つの意識の安定状態が複雑に３次元的に組み合わさってなんとなく球状を作っている、というのが実際の「じぶん」の意識状態ではないだろうか。上の例からすれば、相手をした顔も覚えていない男性たちの視線は、彼女の球内の彼らのイメージからの視線となり意識となり、彼女自身は意識場に球を作り上げ安定する(内向状態となる)。そして援助交際という公にできない違法行為をするじぶんに対する否定の意識が、イメージ化された友人たちから「～られる意識」として発せられ、核をつくり圧してうつ状態になると考える。

３．３．他者の認知の２パターン
外向時は自己他者の区別がなく、認知する必要もない。外向状態そのものが他者認知とも言えるだろう。またもう一つのパターンは内向時の認知である。外向きの意識のない状態の認知は実際不可能であるため、認知しようと球の中にイメージを作り出し認知したつもりになる。たとえばあなたが今好きな男性について考えたとしよう。その男性の誕生日に何をあげようか、とあなたは考えあぐねる。しかし実際はそのプレゼントはあまり男性にとって嬉しくないものかもしれない。その状態がここで言う内向時の他者認知である。この考え方は「だまし絵」を例に用いたメタコミュニケーション的了解（西村清和:電脳遊戯の少年少女たち参照）にも当てはまる。つまり、だまし絵の階段をある人は階段だと瞬時に無意識に内向状態で察知するが、実際はそれが絵であると触って（触るという外向意識の働きがある）からわかるのだ。これが内向状態と外向状態の認知パターンの差である。「じぶん・この不思議な存在」においても「の宣言にはわたしの死が構造的に必然的である」のは、宣言をする場合には必要条件として相手がいて、その相手とともに外向的安定状態となると同時に内向状態に存在していたはもういない(死んでいる)、という説明ができる。そして外向状態というのは、「それぞれのにとって異なるということはだれも認めないはずがないのに、こうしたいわば自明のことがらが、わたしたちが具体的な他者に直面しているときに案外忘れ去られている」と述べられている状態である。

４．見る／見られる
いつも通る道の風景を見る。ボーっと見ることもあれば、薬局を探していることを前提に見たりする。分節ということばも絡めれば、なにかの模様と見るか、これらは文章を構成している文字として見るかという違いがある。このように見るという行為には深度があるように思う。同様にじぶんの解答に間違いがないか見直しする行為は、見る深度を一段階深めて（簡単に言えば慎重に）見る行為であろう。また空想で何かを見ることもある。好きな人を思い浮かべてにんまりしているときには、その人のイメージを見ている。このように、見るという意識は外向きで（たとえば「探す」という行為）、そのベクトルには深度というか強度があると思う。一方その逆である見られる意識もある。太陽からの光線は、モノや人にあたり反射してわれわれの眼に入る。つまり光線を意識と置き換えれば、「机がある」と認知するのは机によって見られている意識があるのだ。もちろん視覚だけが感覚だというつもりはないが、その要素としてはあると思う。これがモノではなく人である場合はだれか他者に見られることになり、それは外から内への意識である。たとえば右隣の友人が私を見ていることに気がついてそちらを向くというほぼ無意識的な行為は、見られる意識と見る意識のそれぞれのベクトルの安定を狙った行為であり、同時に外向状態となる。もちろん見られる意識のベクトルにも強度がある。しかしこの強度は感受するじぶんの感度となる。たとえば対人恐怖の場合その感度は相当に高くなる。しかもこの場合は、だれか他者に見られる意識だけでなく、内向状態に存在する顔すら持たないイメージとしての「他者」に見られる意識があるため、それを見る意識でもって安定させることができない。先に挙げた彼女は、内向状態を弱くする（こころのうちを話す）ことによってイメージの「他者」を消す（忘れる）カウンセリングをしていた。このように見る／見られる意識は逆方向のベクトルとして存在している。

５．他者危害原則
これは「教養としての『死』を考える」を読んで初めてこのような言葉があることを知った。つまり「他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」という考え方である。これは援助交際をしている子によくある身体感覚であるが、この原則は実際に例としてあげたように、何をしても良いが、その「何をしたか」はその他人にはいえない。具体的に言えば、「何をしたか」を友人に言えばその人は友人でなくなる可能性がある。そのためしばしばじぶんを気にしながら会話することになり、完全な外向状態を取りながらのコミュニケーションができずに内向状態を作り出していってしまう。そしてこの内向状態においてはじぶんと他者の区別ができているために、じぶんという身体感覚が生じているのではないかだろうか。またこの原則が成立ための必須アイテムがある。それはケータイだ。ケータイは、コミュニケーションの相手が他者か「他者」か、という区別をなくしてしまった。つまり電話をしたりメールをしたりするときの相手は、じぶんの中にあるイメージとしての相手であり、そしてその相手へのことばがそのまま本物の相手に伝わっているのだ。誰か好きな人に「好き」と伝えるときにメールや電話のほうが伝えやすい理由は、ケータイを手にして伝える本人は、じぶんの中に存在するイメージの好きな人に言えばいいだけであるからだ。このように内向状態で抱え込む悩みや苦しみといったものが、内向状態のままに他者とコミュニケーションができてしまっている。そしてこのことはじぶんの物語を作る機会をなくす。たとえば他人に手紙を書くとき、伝えたいことが文章としてうまく書けず何度か書き直したことはないだろうか。この行為は自然と他者に伝えようと、「他者」をよく見定めながら、いまじぶんが存在するまでの過去や未来の連続化(と同時に記憶の銘記もあるわけだが)をして物語を作っているのだ。しかしケータイのメールとなると文章というよりかは会話文や単語だけ、または伝える内容もなく「なんとなく寂しい」といったメールもある。このような状態だと他者に伝える文章は作る機会がなく、「他者」を見定めることもなくじぶんの物語を作る機会も減ってしまうのだ。よって内向状態でありながらじぶんの物語の存在しないため、「なんとなく浮いている」若者の存在感覚になるのかもしれない。

６．模倣とIdentity
「じぶん・この不思議な存在」から、「発音のしかた、手の動かしかた、表情のつくりかた、排泄のしかた、手の動かしかた、歩きかた、さらには他人のいじめかたまでふくめて、わたしたちはすべてを模倣からはじめた」と引用する。たしかにそうであろう。二十歳のわたしですら友人の癖がうつることはある。これは次のように説明できないか。ある友人と外向状態にあって、で話し終わって別れそれぞれ内向状態となる。するとその友人はわたしのなかにイメージとして存在する。次にその友人と会い、会話などの内向状態から外向状態になるときにベクトルの安定を考えてみると、まずその友人のイメージからの見られる意識と見る意識とで安定化し、力の釣り合いが成立し内向状態が弱まった後で友人自身と外向状態となる。模倣はそのような過程の中でその友人のイメージがわたしに身体化してしまったのではないだろうか。自己Identityはそのような過程での身体化を示す例である。つまり内向状態でこうあるべき自己イメージを作って、それをみたすように努力するという安定化の行為は、意識レベルから身体レベルに及んでいる。模倣も同様なのではなかろうか。

７．さいごに前提条件
じぶんと他者との関係性はこのようなイメージで、意識の安定化をめざして意識は動く。しかし他者がいる以上安定はいつも壊されて、他者がいる状態で安定をめざす。前提状態はこれらがイメージであることだ。そしてこのイメージ自体の存在がないこともあるのだ。外向時はもちろん、感情が身体を動かすときには間違いなくこのイメージは存在しない。
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    <author>
      <name>DaisukeTokita</name>
      <uri>http://www.loftwork.com/user/7239/blog/</uri>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.loftwork.com/user/7239/blog/">参考文献
鷲田清一
「じぶん・この不思議な存在」（講談社現代新書）
「教養としての『死』を考える」（洋泉社）

１．じぶん
「じぶんとはなに」と考えたのは高校3年生のときであった。いや、正確に言えば考えさせられた。そのときの話をしてみる。私には優秀な私立高校に行き東大を目指す女友達がいた。しかし実際には高校三年の時点で自らの成績不振で自らを追い詰めていて、彼女は家族や学校との話し合いの結果、勉強による否定意識をまずは取り除く考えから現役の受験はやめることになった。どのくらい追い詰まっていたかといえば、彼女は学校出ればすなわち勉強をすることしか頭になく、3年通った高校の周りにある遊び場(たとえばカラオケができるビルの場所)をまったく知らないほどに勉強しかみえず、さらに親ともあまりうまくいっていなかったために結果として自分の成績は自分の責任としてすべてを背負っていた。そのような状況で受験を半分強制的にやめさせられた彼女は、このような事態に陥った原因をあれこれ考えていた。そしてその考える定義域は、それこそじぶんのなかだけだったのである。ひとつのことに熱中する性格だったのもあるが、とにかく自分の思考をめぐらせ原因を探っていた。探ってくたくたになり包丁を片手にわたしに電話してきたこともあった。当時のわたしは哲学などには興味はなくただ写真が好きな高校生であったが、このような相談にはひたすら「もっと外部を見ろ」と答え、彼女の「死にたい」という発言に対して漠然とそのような死は彼女の中での死であり現実の死とは異質だと感じていたことを今でも覚えているし、本人もそれを認めた。そのような感覚から「じぶんとはなに」か、を考え始めていた。ちなみに彼女は現在半年の浪人生活の末、東大ではないものの大学生になっている。

２．他者
じぶんが存在するときには「他者」が存在する。答え探しをじぶんの中から探していたその彼女の話を聞くときに、「他者」は彼女のことばのなかに現れ、それは彼女の答え探しの物語を作り上げる一部分となっていた。たとえば家族関係で親を完全に彼女は無視していたが、それを語るときに親は自分ではない「他者」として語られた。しかしこの「他者」は他者ではない。つまり、例からいえば親自身ではなく親のじぶんの中にあるイメージ、または像の「他者」である。また別の例を挙げる。中学２年生で友達に誘われて援助交際を始めた子がいた。この子はのちにじぶんの表沙汰にできない行為を家族や以前からの友達にいえずに抱え込み、それが過剰になり他人の目線を気にさせるまでに至り、対人恐怖症とうつ病となり家から半年間出られなかった。この場合の対人恐怖症は自らの公にできない行為を友人に隠し続けなくてはならないことや、そのような行為をしてしまう自己否定、また援助交際ネットワークには必ずといっていいほど暴力団の男性がいるので、売買した男性にはもう会いたくないという恐怖感などがあった。そのような他者からの視線は、じぶんのなかでイメージの「他者」からの視線となっていると思う。とくに覚えているはずもない相手した男性の顔からの視線が人のいるところ常に感じる視線となっていたのは確かで、３ヵ月後始めて外に出たときは目深に帽子をかぶっていた。

３．意識場
主観的で申し訳ないがわたしは写真を芸術としてやっている。写真を撮るときにはいつもここだという構図を見つけてはシャッターを切るのだが、それはまさしく、じぶんの目に見える風景からじぶんの意識で分節する行為ではなかろうか、と思っている。このような理由からわたしは「意識」について考えることがある。意識はまた安定する方向を目指す。写真の構図は、窮屈でもなくのびのびとでもなく黄金比を満たしているような場合が良いとされている。黄金比に限られないだろうが、このように写真は現像しプリントされたときに安定した構図が求められる。たとえば国旗などで四角の中に丸を描くとき、確固たるシンボルとして丸を描くときはその丸は四角の中央に描く。これは真ん中に置くことで四角と丸に対する見る人の意識の安定が、「確固たる」イメージとつながるためだと説明できると考える。また心理療法において紙に枠を与えることで自由に絵を書けるクライアントが多くいて、それに枠療法という名前がついていることからも、枠が持つ意識の安定性があるといえる。この意識の視点からじぶんと他者の関係を考えてみる。そこで導入する考えは「場」である。「場の倫理」とは別の考えであることに注意してもらいたいのだが、このモデルは流体力学などで用いられる場であり、電磁場や重力場とも同じである。あなたは高校時代、ある物体（質点）から地球に向かって矢印（ベクトル）を引いたことはないだろうか。それは質点にかかる力の向きと大きさを表した空間（平面）であり、重力場である。このような場の考えにおいてその場を満たす媒質も大切である。たとえば、重力場においてある質量が移動する。この時媒質が真空か空気か蜂蜜かによって質点に対する力のかかり方は変わる。安定はここでは力の釣り合いとして表現できることに注目してもらいたい。

３．１．外向性意識
じぶんと他者の関係性のうち、たとえば会話というコミュニケーションについて取り上げる。そして場で意識を表すと、
Ａ「昨日の晩御飯、なに食べましたか？」
Ｂ「オムライスを食べました、ケチャップかけて。」
このときのＡさんの意識とＢさんの意識は向かい合って、それぞれが発する意識ベクトルがかみ合って「ふたり」という状態で安定する。
 (図?)
図?は上の会話を行ったときの意識場における意識の様子(ある時刻で固定)である。このような状態をＡ(Ｂ)さんの外向状態と呼んでみる。このときＡ(Ｂ)さんはそれぞれの話し相手を意識などしておらず、じぶん自身も意識していない。しかし
Ａ「今日の晩御飯、なに食べたいですか？」
Ｂ「(わたしは)オムライスが食べたいです、ケチャップかけて。」
と「わたしは」と、他者のまえに強勢点を打ってじぶんを意識させるときがある。この強勢点を打たされたわたしの感覚をもたらす意識はなんだろうか。それを次に挙げる。

３．２．内向性意識
もう一つの安定のパターンとして、Ｃさんが一人で考える時の意識の様子が挙げられる。この円(球)の存在が強勢点を打たされた感覚である。
 (図?)
図?は思考時の意識の様子である。なおこれは平面での図であり実際の意識場においては球状を取るとして、これを球と呼ぶ。また球の内部に映るイメージからの意識の向きが球の中心に集中するため、この付近の媒質は固くなる。この部分を核と呼ぶ。また内向時に特徴的なのは主体と客体が生じることにある。言い換えればじぶんと他者の区別ができる。そのため区別された他者に伝えるために「わたし」に強勢点を打ったわけである。図?の点線で囲った枠がＣさんの枠であり主体でありじぶんである。この二つの意識の安定状態が複雑に３次元的に組み合わさってなんとなく球状を作っている、というのが実際の「じぶん」の意識状態ではないだろうか。上の例からすれば、相手をした顔も覚えていない男性たちの視線は、彼女の球内の彼らのイメージからの視線となり意識となり、彼女自身は意識場に球を作り上げ安定する(内向状態となる)。そして援助交際という公にできない違法行為をするじぶんに対する否定の意識が、イメージ化された友人たちから「～られる意識」として発せられ、核をつくり圧してうつ状態になると考える。

３．３．他者の認知の２パターン
外向時は自己他者の区別がなく、認知する必要もない。外向状態そのものが他者認知とも言えるだろう。またもう一つのパターンは内向時の認知である。外向きの意識のない状態の認知は実際不可能であるため、認知しようと球の中にイメージを作り出し認知したつもりになる。たとえばあなたが今好きな男性について考えたとしよう。その男性の誕生日に何をあげようか、とあなたは考えあぐねる。しかし実際はそのプレゼントはあまり男性にとって嬉しくないものかもしれない。その状態がここで言う内向時の他者認知である。この考え方は「だまし絵」を例に用いたメタコミュニケーション的了解（西村清和:電脳遊戯の少年少女たち参照）にも当てはまる。つまり、だまし絵の階段をある人は階段だと瞬時に無意識に内向状態で察知するが、実際はそれが絵であると触って（触るという外向意識の働きがある）からわかるのだ。これが内向状態と外向状態の認知パターンの差である。「じぶん・この不思議な存在」においても「の宣言にはわたしの死が構造的に必然的である」のは、宣言をする場合には必要条件として相手がいて、その相手とともに外向的安定状態となると同時に内向状態に存在していたはもういない(死んでいる)、という説明ができる。そして外向状態というのは、「それぞれのにとって異なるということはだれも認めないはずがないのに、こうしたいわば自明のことがらが、わたしたちが具体的な他者に直面しているときに案外忘れ去られている」と述べられている状態である。

４．見る／見られる
いつも通る道の風景を見る。ボーっと見ることもあれば、薬局を探していることを前提に見たりする。分節ということばも絡めれば、なにかの模様と見るか、これらは文章を構成している文字として見るかという違いがある。このように見るという行為には深度があるように思う。同様にじぶんの解答に間違いがないか見直しする行為は、見る深度を一段階深めて（簡単に言えば慎重に）見る行為であろう。また空想で何かを見ることもある。好きな人を思い浮かべてにんまりしているときには、その人のイメージを見ている。このように、見るという意識は外向きで（たとえば「探す」という行為）、そのベクトルには深度というか強度があると思う。一方その逆である見られる意識もある。太陽からの光線は、モノや人にあたり反射してわれわれの眼に入る。つまり光線を意識と置き換えれば、「机がある」と認知するのは机によって見られている意識があるのだ。もちろん視覚だけが感覚だというつもりはないが、その要素としてはあると思う。これがモノではなく人である場合はだれか他者に見られることになり、それは外から内への意識である。たとえば右隣の友人が私を見ていることに気がついてそちらを向くというほぼ無意識的な行為は、見られる意識と見る意識のそれぞれのベクトルの安定を狙った行為であり、同時に外向状態となる。もちろん見られる意識のベクトルにも強度がある。しかしこの強度は感受するじぶんの感度となる。たとえば対人恐怖の場合その感度は相当に高くなる。しかもこの場合は、だれか他者に見られる意識だけでなく、内向状態に存在する顔すら持たないイメージとしての「他者」に見られる意識があるため、それを見る意識でもって安定させることができない。先に挙げた彼女は、内向状態を弱くする（こころのうちを話す）ことによってイメージの「他者」を消す（忘れる）カウンセリングをしていた。このように見る／見られる意識は逆方向のベクトルとして存在している。

５．他者危害原則
これは「教養としての『死』を考える」を読んで初めてこのような言葉があることを知った。つまり「他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」という考え方である。これは援助交際をしている子によくある身体感覚であるが、この原則は実際に例としてあげたように、何をしても良いが、その「何をしたか」はその他人にはいえない。具体的に言えば、「何をしたか」を友人に言えばその人は友人でなくなる可能性がある。そのためしばしばじぶんを気にしながら会話することになり、完全な外向状態を取りながらのコミュニケーションができずに内向状態を作り出していってしまう。そしてこの内向状態においてはじぶんと他者の区別ができているために、じぶんという身体感覚が生じているのではないかだろうか。またこの原則が成立ための必須アイテムがある。それはケータイだ。ケータイは、コミュニケーションの相手が他者か「他者」か、という区別をなくしてしまった。つまり電話をしたりメールをしたりするときの相手は、じぶんの中にあるイメージとしての相手であり、そしてその相手へのことばがそのまま本物の相手に伝わっているのだ。誰か好きな人に「好き」と伝えるときにメールや電話のほうが伝えやすい理由は、ケータイを手にして伝える本人は、じぶんの中に存在するイメージの好きな人に言えばいいだけであるからだ。このように内向状態で抱え込む悩みや苦しみといったものが、内向状態のままに他者とコミュニケーションができてしまっている。そしてこのことはじぶんの物語を作る機会をなくす。たとえば他人に手紙を書くとき、伝えたいことが文章としてうまく書けず何度か書き直したことはないだろうか。この行為は自然と他者に伝えようと、「他者」をよく見定めながら、いまじぶんが存在するまでの過去や未来の連続化(と同時に記憶の銘記もあるわけだが)をして物語を作っているのだ。しかしケータイのメールとなると文章というよりかは会話文や単語だけ、または伝える内容もなく「なんとなく寂しい」といったメールもある。このような状態だと他者に伝える文章は作る機会がなく、「他者」を見定めることもなくじぶんの物語を作る機会も減ってしまうのだ。よって内向状態でありながらじぶんの物語の存在しないため、「なんとなく浮いている」若者の存在感覚になるのかもしれない。

６．模倣とIdentity
「じぶん・この不思議な存在」から、「発音のしかた、手の動かしかた、表情のつくりかた、排泄のしかた、手の動かしかた、歩きかた、さらには他人のいじめかたまでふくめて、わたしたちはすべてを模倣からはじめた」と引用する。たしかにそうであろう。二十歳のわたしですら友人の癖がうつることはある。これは次のように説明できないか。ある友人と外向状態にあって、で話し終わって別れそれぞれ内向状態となる。するとその友人はわたしのなかにイメージとして存在する。次にその友人と会い、会話などの内向状態から外向状態になるときにベクトルの安定を考えてみると、まずその友人のイメージからの見られる意識と見る意識とで安定化し、力の釣り合いが成立し内向状態が弱まった後で友人自身と外向状態となる。模倣はそのような過程の中でその友人のイメージがわたしに身体化してしまったのではないだろうか。自己Identityはそのような過程での身体化を示す例である。つまり内向状態でこうあるべき自己イメージを作って、それをみたすように努力するという安定化の行為は、意識レベルから身体レベルに及んでいる。模倣も同様なのではなかろうか。

７．さいごに前提条件
じぶんと他者との関係性はこのようなイメージで、意識の安定化をめざして意識は動く。しかし他者がいる以上安定はいつも壊されて、他者がいる状態で安定をめざす。前提状態はこれらがイメージであることだ。そしてこのイメージ自体の存在がないこともあるのだ。外向時はもちろん、感情が身体を動かすときには間違いなくこのイメージは存在しない。
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