
俳優の瑛太さんの似顔絵を描いてみました。
脱力系な雰囲気を出そうと思って描きました。
イラレ使用です。
垂れ目過ぎたので、再UP。

-サルトルを読む-
サルトルのハウツー本を読んでるわけですが、いちいち反論したくなって先にすすめません。
今つかえているのは「存在と無」。
サルトルは、無意識を認めず、「自己欺瞞」だと言っています。
「無意識とは、沈黙することをみずから選んだ意識である。」と。
以前、ニ浪のとき、同じようなことを考えていました。
「無から有は生み出されないから、作品は有からの変容でしかない。」
という作文を書きました。
試験練習用の課題だったのだが、今考えると自分も変わったなぁと思います。
無意識というのが欺瞞であるなら、
意識も自身の捏造である可能性もあるのではないか。
意識1を「意識0」したとき、その意識1は「意識0」ではない。
では、最初の「意識0」という概念が、本当に「意識0」であると誰が言えるのだろうか。
概念とは、空虚なもの。
そういうことを言いたかったのだろうか?
いや、おそらく違う。
意識が無意識を生むのではなく、
無意識から意識が生まれるのではないか。
それが、私というものではないか。
「最初に意識ありき」とは、どうしても思えません。
私には、芸術のセンスはないし、創作のセンスもありません。
けれど、「無意識」という概念があるおかげで、
私は私の予期しない(私を超えた)作品を作ることができる。
それは「私」の力ではない。
内なる他者のおかげです。
内なる他者も私であるなら、
「神」も私であるし、
「真理」も私であるし、
「正義」も私であることになってしまいます。
それは、恐ろしいことです。
内なる他者も自己欺瞞であるなら、では何なのか?
自分ではどうしようもない領域-無意識-が、己の中にある。
たとえそれが自己欺瞞だったとしても、「私」の暴走をとめることができるのなら、無意識の必要性は十分すぎるほど認められると思うのです。