
ロバートデニーロの似顔絵を描いてみました。
ハイドアンドシークを見ました。
結末はなんとなく分かってしまいましたが、とても怖かったです。
多重人格とまではいかないまでも、自分の精神を抑制し過ぎている人は多いように思います。
私も人のことを言えるような人間ではないですが、以前教わった先生が印象(トラウマ?)に残っています。
普段はとても理性的で、「デザインは、合目的的・・・」であって、アート的な要素を尽く否定される方でした。
けれど、自分の意にそわない発言をされると、かんしゃくを起こしてました。
最も理性的でない行動をとってしまうのです。
なにか悲しい気持ちになったと同時に、(一般的に定義されている)デザインには私は向いていないと思いました。
-デザインについて-
デザインという分野を勉強したのですが、未だにデザインという概念を理解できていません。
「デザインとは、何か?」と考えることは、すでにニヒルな感情を含んでしまいます。
ニーチェに習えば、「デザインとは、誰か?」と考えるほうがよいのかもしれません。
私の中では、デザインの起源は二つあると思っています。
一つは、アーツアンドクラフツ運動からの、モリスのデザイン。
もう一つは、「蜘蛛が巣を作る」ような生命活動がデザインであるという、生命体のデザイン。
そこから、全くまわりの先生や生徒との話が噛み合いませんでした。
「それは、デザインではない。アートだ。」
「絵を描くことは、デザインではない。」
と、腐るほど言われました。
「デザインだって、アートの一部に過ぎないだろう。」
「頭の中で絵を描けないものが、デザインなんてできるのか?」
そんなことを思っていましたが、口には出せませんでした。
「機能美」という思想?も、吐き気がするほど嫌いでした。
機能美は、人の心をズタズタにしている。
機能美は、心的機能を考えてはいないのではないか?
そんなことを感じていました。
ものすごくショックだったのは、「花柄ポット」についての先生の考察でした。
「これは、酷いデザインだ。全く機能を考えて作られていない。花の模様も必要ない。」
今でも怒りを感じてしまいます。
花柄に癒された人の「心」ってものが、あるのでは?
「機能美」にとっては、「花柄」は不要かもしれない。
けれど、「心的機能」としては「花柄」やそれに変わる要素は必要だと思うのです。
モリスというデザイナーは、そういう意味で尊敬しています。
「イラスト」においても、同じことを感じています。
「説明図」であることは重要です。
けれど、それ以外の要素も、人の「心」が欲しているはずです。
もしかしたら、「似顔絵」も、そうかもしれません。
「似せる」ということは、絶対にすてられない課題です。
けれど、それ以外の要素を、人の「心」が、なりより私が欲しています。